巻頭言
2021年7月


2021年7月4日

「永遠のいのちイエス・キリスト」

犬塚 契牧師

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。  <ヨハネの手紙1 5章6-12節>

 ドキュメンタリー映画の監督の話を聞きました。被害者、加害者、被災者…取材対象者からその苦しい体験を聞くに、まず自分の話をされるとのことでした。自分が通ってきた挫折、弱さ、絶望を最初に伝えるそうです。やがて、この人であればと心を開き、カメラの前で話し始めてくれるようです。それは、単なるテクニックの問題ではないでしょう。生きる生身が晒され、抜き差しならぬ場、問われる時に思えます。▲上記聖書個所、「水と血を」とヨハネが2度も繰り返しているのは、「水だけで」と語る人々を意識してのことのようです。水とは、洗礼者ヨハネからのバプテスマ、血とは十字架の出来事です。人間イエスに神の子キリストが宿ったのは、バプテスマの時から、十字架の前までだったとの主張がありました。肉体的苦しみへの意味が綺麗に落とされています。キリストが去った後のイエスは、あの十字架での苦しみを受け、神から見捨てられたと叫んだのだと。それはまた霊と肉を分け、霊を善とし、肉を汚れとすることへつながります。そして、肉の罪は霊とは関係がないというところまで至るようです。当時、流行したそんな思想の真意を捉えきることは難しいことですが、「水だけ」で生き得ると判断した人々が存在しました。それは多かれ少なかれ、私の心にも巣くうものに思えます。一番弟子ペトロもまた受難を予告する主イエスに「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」(マタイ16:22)厳しい言葉で叱られます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者…。」さばくに花が咲くだろうか、痛みに意味があるだろうか、受難に救いがあるだろうか、苦しみに神は伴うだろうか…人は上手に見通すことができないのです。悲哀排除症候群と言われる現代、享楽をことさら求める文化の中で、「水」なる救いを求める渇きはつとに強くなったのだと思います。▲ただ「水と血を通って来られた方、イエス・キリスト」というヨハネの実存をかけた信仰告白に、ふと慰めもいただくのです。私たちの生身は、割り切れぬことや切り捨てられぬことが多分に散らばっているものです。描く理想とも違いがあり、また話す言葉の強さの裏側に、収拾がつかず、とりとめのなさを抱えています。しかし、だとしても、にもかかわらず…幸いなるかな、覆ってあまりある福音のベース音が響いてくるときがあります。「水と血を通って」▲へブル書の記者は書きました。「主イエスが私たちの生身を知っておられるのだという慰めです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」へブル4章



2021年7月11日

「聞くだけでは終わらない」

犬塚 契牧師

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。      <ヤコブの手紙 1章19-27節>

 伝統的には主イエスキリストの兄弟ヤコブが離散したクリスチャンたちへ書いた回覧の手紙です。当時ありふれた名前の「ヤコブ」でありながら、それだけで誰だか分かるのは、エルサレム教会の指導的立場の彼であったろうと。1節はこうでした。「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。」苦しみや痛み、病にあった人の話を聞くときに、自分がどんな顔をしているのかは鏡を見なくても分かります。眉間に皺を寄せ、下唇を少し噛みながら、目を曇らせていると思います。しかし、ヤコブ…。離散の苦境にある人々に、「この上ない喜びと思いなさい」と書いていますから、スゴイことだなと単純に思います。続けて理由もありますが、試練は、信仰につながり、信仰は忍耐を生むようです。かつて「忍耐」とは歯をくいしばって耐えることでした。しかし、実存的に「忍耐」を教えてくださった先輩牧師から、忍耐とは「希望し続けること」だと知らされました。V・フランクルは、「夜と霧」の中で収容所で生死を分けたものは「希望」であったと書いていました。希望を完全に捨ててしまっては、人は生きられないようです。ヤコブは、離散した人々に、我慢を強いたのではなく、希望を語り始めたのでしょう。1章17節はこうあります。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」父なる神には、気分も機嫌も日食のような闇も陰鬱な影もないようです。じっくりと心に染み込ませるならば、それは希望の礎となるでしょうか。そして、今日の聖書個所の19節以降。希望をどこか大切にする人は、聞く耳を持ち、おしゃべりは過ぎず、怒りをぶちまけないのだと。なるほど、逆をしていたのだと思います。「人の怒りは、神の義を実現しない」ようです。「神の義」の中に、旧約聖書の言葉は「神のやさしさ」の一面を含ませていました。怒ったままではそのやさしさはとても届かないのです。正直、どうにかしてもらいたい渇きがあります。ヤコブは続けます。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」 素直に。素直に。 



2021年7月18日

「人を分け隔てせず」

犬塚 契牧師

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら…       <ヤコブの手紙2章1-5節>

 ヤコブ2章。書かれてあるような「えこひいき」が本当にあったとするとかなり露骨です。読み手の離散してきた人々の多くは貧しかったと思います。あるものを分け、譲り合い、貸し合いながら生きていたのでしょう。属する集会にふと明らかな金持ちが来れば、大きな保証を手にした気持ちにもなりました。この人が支えてくれるかも知れないという期待も膨らんだと思います。一方、貧しい人がくれば、さらに奪われるのかという危機感を覚えました。考えたことはそのまま歓迎の態度となって表れていました。しかし、ヤコブはそれはだめだと語ります。世の中の基準はそれだし、常識的であり、まかり通っている…。だけどやはり教会には違う基準があり、違う世界が広がり、違う音色が流れているはずだと。経済的ゆとり、容姿、学歴、フォロアー、知力、能力、支持率…人はレッテルを張り合って生きているけれども、「神は人を分け隔てなさいません」(ローマ2:11)▲入学式後の集合写真の子どもを見つけ、ネクタイの角度、ヘアスタイル、膝の開き方、緊張の面持ちを後で注意する親がいるでしょうか。少し曲がっていようと寝癖が残っていようと足が開いてしまおうと過度の緊張で笑顔が足りなかろうと親であれば、まるごと愛するものです。比較の土俵にのせることもしないでしょう。癖のひとつひとつは欠点としてではなく、愛おしさに映っています。人の親にしてそうならば、まして神は「これはわたしの愛する子」と呼ばれるのだと信じたいと思います。▲金持ちと貧乏人のえこひいきの課題は、道徳的な教えではありません。むしろ、マモン全盛、マネー全盛のこの時代にあって、そんな思い煩いを父なる神にゆだねていきていけるだろうかという課題でした。私たちが結局は頼りにしている生活の基盤とは、一体どこなのかが問われているようです。そう読むならば、2000年前の手紙は、実に現代的な響きをもって迫ってくるようです。この世の経済の仕組みに軸足をおいて生きるならば、もう人のために生きることも共に生き合うなんてこともばかばかしくてできないことに思います。瞬時に浮かぶ損得が首根っこをつかんでいます。もう一度、思い出したい祈りがあります。主の祈りの最後。「国と力とさかえとは、限りなく汝のものなればなり」。アーメン 



2021年7月25日

「上から出た知恵」

犬塚 契牧師

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 <ヤコブの手紙 3章13-18節>

 「柔和」という言葉のもつやさしい響きとは裏腹に、それが自分にすすめられると届きそうにないことを知っているせいか失望を感じてしまいます。ヤコブの手紙3章の言葉は、励ましよりも先に落ち込みに誘うのです。雲の上の基準となって聞こえてきます。▲しかし、ヤコブが活躍した時代に生まれた哲学者エピクテトスは、「柔和」を道徳的欠点のリストの最初に挙げました。今読めば、否定しがたい美徳に思えるこの言葉は、2000年前に生きた人々には欠点と映ったようです。初代キリスト教文書の著者たちは、その信仰によって実に特殊な言葉選びをしていました。「柔和・おだやか」という言葉の元に「貧乏人」の意味がありました。常に抑圧され続け、屈従を強いられ、抗いを忘れ、反抗の気力すらももう湧かず、笑っているしかない人たち…。なるほど、強さ、勇ましさと比べれば情けなく、道徳的欠点と数えられもするでしょうか。ヤコブ書を始め、初代キリスト教文書はどういうわけかこの言葉を選び、天来の知恵によって、甘んじて柔和さを生きることを時代の空気に反して目指し、それを皆で共有してきました。思えば彼らは、主イエスの奇跡的な逸話やスーパースターとして人物像をもって記録を綴ることだってできたのに、それらを大胆に捨ててきたのです。すべての福音書は、恥辱の十字架刑へ向かう主イエスを軸に構成されていきました。そして、その福音書だけが読み続けられていったのです。真の人生の慰めをその主イエスの「柔和」さから得ていったのです。 




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