巻頭言
2020年7月


2020年7月5日

「主イエスと共に♪」

犬塚 契牧師

イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。       <テサロニケの信徒への手紙T 4章より>

 立て続けに身近な人々が死を迎え、底知れぬ寂しさの中で、「復活がないと困る」と書いたのはフィリップヤンシーでした。「ないと困る」という切実な飢え渇き、懇願に近い信仰の告白にその言葉は、最初に読んで以来、何度か読み返しました。パウロもコリント教会への手紙で同じように語っていました。「キリストが復活しなかったのなら…わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」▲ナチス政権下にあったドイツの牧師・神学者ボンヘッファーは「死者はどこにいるのか」という説教の中で、旧約外典の知恵の書の「ところが彼らは平和のうちにいる」という箇所を参考に、私たちはこのような事柄に直面しては、子供以外の何者でもないし、それ以外の者でありたいとも思わないと語っています。「そう、私たちは幸い神ではない、何も知らない者である、しかし、知らないが故に押し黙った沈黙でなく、幼稚な言葉で、単純に語っていいのではないかと。『うれしい時には、子供のようになるがよいのだ。・・・「母がその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」(イザヤ書33章)』。なお、天を見上げるような信仰告白的希望があります。Tテサロニケの4書のパウロが表現したラッパが鳴り、信仰者が挙げられ、主イエスと空中で出会うような再臨のイメージは、文字通り起きる予言でなく、パウロの信仰告白ではなかったかと思うのです。▲テサロニケの信徒たちの「生きる」ことへの執着は、同胞の死は悲劇と見えました。「ところが…」「眠りについた人たちも」まったく心配ないのだと、パウロは神の心のワクワク感を伝えるのです。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(17節)



2020年7月12日

「いつも喜んでいなさい」

犬塚 契牧師

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。    <テサロニケの信徒への手紙T 5章12−28節>

 色紙にさりげなく描かれた花のイラストと共にこの聖書箇所をよく目にします。愛唱聖句としておられる方も多いと思います。人が幸せに生きる秘訣を“聖書”に珍しく3ポイントにまとめているような分かりよい言葉と思います。読むたびに、その通りだなぁと振り返るリセットポイントのようでもあり、大切な言葉です。…それで、言われていることを改めて咀嚼しようとすると言葉のテンポと裏腹に、実に厳しいことを感じます。「いなさい、なさい、しなさい」という薦めは、省みれば迫りとなり、そうそうたやすくはありません。「斜め下を見て、生きてきたからなぁ」とつぶやいているほうがなんだか性に合ってしまうのです。▲「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。…なぜ、喜び、祈り、感謝するのか、その理由は私たちの内でなく、神の望みだからなのだと語られます。普段、ご機嫌とご都合と満腹で、一喜一憂していますから、やはり環境の奴隷のようです。しかし、そんな日常にあって飢え渇く時、主イエスキリストによって知らされる神の喜び、神の祈り、神の感謝が、風のように運ばれてくるのです。テサロニケ5章の3ポイントは、覚えやすい標語でなく、神が私たち一人ひとりを目の前に置き、そこで漏れる御想いです。どんな状況においても永遠に支えるという約束の裏返しです。 



2020年7月19日

「かの日、主が来られるとき」

犬塚 契牧師

兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。…主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。 <Uテサロニケの信徒への手紙U 2章より>

 2000年前のテサロニケの小さな教会。迫害の危機が、亀裂を生むこともあり得たのに、この教会の危機はお互いを愛することに深められていきました。パウロは、そのことを「神に感謝せずにはいられません」と記します。迫害の嵐が収まることも願ったでしょうが、むしろ、荒地に愛の芽がでたことがその心を捉えたようです。危機が亀裂を生むことも確かにありますが、厳しい中にあっては、(どこからそんな力が湧いてくるのか)愛することに向かうこともあるのです。今が、コロナ禍と言われる危機ならば、愛することにまた体を傾けたいと願うものです。▲パウロの神への感謝は、「あなたがたも、神の国のために苦しみを受けている」との苦しみの意味を山として、従わない者たちの裁きへと下りていきます。容赦ないような記し方に、しばし戸惑いもします。しかし、紙面の向こうに心底その裁きを願うテサロニケの信徒の姿は見えてきません。「苦しみをもって報い」「罰をお与えに」「刑罰を受けるでしょう」…パウロの手紙がゆっくりと読まれる中で、彼らは神の裁きの一言一言に歓声をあげ、歓喜したでしょうか。それともそんなことはあってはならないと考えたでしょうか。彼らが危機の中で、共有していた愛の豊かさは、小さな交わりの輪の中のみだったのでしょうか。▲傷んだ世界にあって、テサロニケの信徒たちの姿は、神の国の視点では、燦然と輝く闇夜の星であり、パウロのみならず、神の誇りです。そして、そんな人たちが確かに必要なのです。 



2020年7月26日

「救われるべき初穂」

犬塚 修牧師

「神はあなたがたを救われるべきものの初穂としてお選びになったからです」 <テサロニケの信徒への手紙T 2章1-17節より13節>

 当時、テサロニケ教会は再臨信仰のことで混乱していた。教会の中には、すでに再臨が来たと主張する人々もいて「もう働く必要はなく、何もしないで良い」と怠惰さを主張していた。また逆に、これから起こる不安な出来事におびえ、慌てふためいていた。パウロはその状態を憂慮して、この手紙を書いた。▲滅びの子の出現―再臨が来る前に、悪の出来事が先立つのである。悪の特徴は「自己正当化・自己絶対化・卑劣な言い訳」である。彼らは自分を神と称して人々を支配する。歴史上、多くの支配者や独裁者は、狡猾に人心を操作し、洗脳し、甚大な苦しみを与えてきた。日本も同様である。人間は一度、強大な権力を得ると、神の座に座るという傲慢に陥る事が多い。▲北イスラエルの初代の王はヤロブアムであった。彼は主の恵みによって、王座を得たが、神に感謝もせず、自力信仰に陥ってしまった。「南王国にはエルサレム神殿があるのに、北王国にはない」ことに不安感を持ち、自分勝手に聖所を造り、偽りの祭司たちを任命した。「あれもこれも、自分には必要だ」と思ったのである。この過ちが北王国の罪のひな型になり、恐ろしいアッシリア捕囚の原因となった。もし、彼が「私には何もないが、必要なのは生ける神だけだ。このお方への信仰だけで、十分生きていける!」という純粋な信仰に立ったならば、溢れる平和と祝福に与ったのである。まことに彼は選択を間違ってしまった。無念の極みである。▲愛されている者よ―神は、私達に魅力や価値があるから愛されたのではなく、たとえ無価値な者であっても、深く永遠に愛して下さる。16節に「永遠の慰め」とある。「永遠は時間の対照語である。時間の中に生きる私達は「放り出された石」に似て、突然の悲しみや試練に打ちのめされ『なぜこんなことが起こるのか……』と呟く。しかし、なぜ私達は「この出来事は矛盾だ、理不尽だ」と叫ぶのか。それは、魂の奥底に「神のもとにある完全な調和と平和の世界」を知っているからである。白雲は青空がバックにあるから「白色」と認識できるように、私達は「青色」にたとえられる永遠をすでに知っているのだ」(北森嘉蔵) 聖書には「神は永遠を思う心を…人に与えられる」(コヘレト3:11)とある。永遠とは神なのである。時間だけに支配され、混乱し、不安に陥らないようにしたい。むしろ、永遠の神を知り、すべてを感謝して生きたい。「初穂」とは「人類の代表者」の意味である。私達はその初穂として、一途で、幼子のように信じ続ける者として生きていきたい。     




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