巻頭言
2019年7月


2019年7月7日

「存在の喜び」

犬塚 契牧師

もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。 <ヨハネの黙示録21章1-5節>

「人はどこから来てどこに行くのか」という問いをまったく考えないまま人生を過ごせる珍しい民族が日本人だと聞きました。きっと褒められているのではなさそうです。なんとなく人の目だけを気にして、周りを見ながら、足並みを揃えて、あぁ大丈夫だと生きるのが日本人なのだと。聖書は不明確な始まりや諸行無常の響きも輪廻も語っていません。創世記の1章は、神の感嘆の始まり伝えています。「初めに、神は天地を創造された」。この聖書箇所から結婚式でも葬儀でも説教してきました。「愚者は経験から、賢者は歴史から学ぶ」そうですが、さらにその奥に響く神の言葉、神の心、初動を知るのは、人が生きるに死ぬに不可欠なのではと思うからです。時もまた神の創造の業です。神に始めも終わりもありません。聖書の最初の一言「初めに」とは、人への神の愛のはじまりです。しかし、その後すぐ、創世記3章には人の堕落が書かれています。人は神のようになることを望みました。罪が入りこんだのです。哀しみの根源でしょう。自分のためにしか生きられない、どこに生きているのか分からない、賛美はどこに届くのか知らないのです。そのうずきを日々持ち合わせています。しかし、神様は、創造のリセットをされませんでした。神の物語は、続くこととなりました。罪を赦すために御子イエスキリストを世に遣わし、神と共にあるいのちを再び得られるようにしてくださいました。ヨハネの黙示録は、神がこの地を完全に贖い、新しい天地を完成されることを描いています。その時、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21章)のです。



2019年7月14日

「ね、ねたみからの始まり」

犬塚 契牧師

ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。…イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。…兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。   <創世記37章1.3.11節>

37章から、創世記の中で最も長い「ヨセフの物語」の始まりのはずですが、それでも聖書はヤコブとして綴ります。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」の連綿たる祝福の続きがあるのでしょう。そこには、変わりない慰めをいただきます。ここまでに様々な登場人物の歩みが描かれてきましたが、真の主人公は神であり、その神の誠実な御思いを創世記は刻むように進みます。その神は、今日も死んではいません。希望の源です。▲「ヤコブ」と記された1節から、3節にはもう一つの名、「イスラエル」(神の支配)として話が続きます。やがて民全体の名となる言葉です。代表たるような家族にも、偏愛があり、ねたみ膿んでいました。白くカビ生えた食材が浮かびます。そこから美味しい料理は、浮かびません。「ねたみ」から何か良いものが生まれることなどないのではないかと思います。それはやがては殺意まで増幅していきます。しかし、ヨセフの物語は、確かにねたみから始まっています。この後の展開を思い出しています。兄弟の裏切りでエジプトに売られ、奴隷から宰相となり、飢饉を救います。さらにそこで増えすぎたイスラエルは、モーセによって出エジプトを果たし、ヨシュアへ引き継がれ、士師時代の混迷を経て、サウル、ダビデ、ソロモンの王の時代へ向かいます。すぐに国は分裂し、預言者たちの活躍、そして長い沈黙があり、イエスキリスト誕生へと続きます。▲人のねたみ裏側で、一体何が働いているのでしょう。37章に一言もでてこない「神」の確かなる臨在を思い起こしたいと思います。その神は今日も主イエスキリストの十字架の贖いによって、新しい命を生み出されるのだと信じたいのです。この崩壊は神抜きにして、何も創造されないのだと失望し、希望したいのです。



2019年7月21日

「ボロボロの家族と神の計らい」

犬塚 契牧師

父は、それを調べて言った。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。    <創世記37章12-36節>

父ヤコブは、ヨセフをなぜヘブロンの谷からシケムまでの長い道のりを行かせたのだろうかと思います。父ならば、兄弟たちにヨセフがどう思われているのか、薄々とでも感じていたのではないでしょうか。兄弟間の憎しみです。むしろ、知っていたからこそ、自分勝手に円満解決の路線を敷き、シケムへ送り出したのかも知れません。明日には明日の風が吹くのだと、勝手にまかせきった父親の姿があります。とても他人事に思えません。やってしまいそうです。それにしても不思議な37章です。なぜ、ヨセフはシケムで兄たちの行方を見失い、「一人の人」に出会うのでしょう。なぜ、「一人の人」は、兄たちがドタンに向かったと聞き、覚えていたのでしょう。なぜ、ミディアン人の商人がヨセフの落とされた穴近くを通りすぎたのでしょう。長男ルベンが「血を流してはならない」とヨセフを憎しみから救い出したのは、自分自身がかつて父ヤコブの側女ビルハと関係をもった後悔からだったかも知れません。(35章)これ以上父の悲しむ顔は見たくないのです。しかし、ルベンの知らぬところでやはりヨセフは行方不明になりました。奴隷として売られていくのです。よいことと思われる動機もそのままで事は進みません。いちいち、一事件が生まれます。兄弟は長い晴れ着に雄山羊の血をつけて、父へ送り届けました。そう、出来事の発端は、父親ヤコブのえこひいきが生んだ妬みからなのです。「お父さん、あなたのせいなのですよ。この晴れ着の息子がいなくなりました」兄たちの抗議のしるしであり、責任の回避でもあります。どこが民族の代表の家族なのでしょう。掛け違えたボタンはもうどこからなおせるのかわかりません。37章の通奏低音があります。ただ約束を果たされる神の計らいです。



2019年7月28日

「しかし、主が共におられ」

犬塚 契牧師

 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエ。ル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人はヨセフに目をかけて身近に仕えさせ…    <創世記39章>

ヨセフがエジプトに連れて来られた頃には、既にピラミッドが驚くべき正確さで積み上げられていた事でしょう。世界に先駆けて発達した文明に驚いたことと思います。ヨセフは海外旅行でエジプトに来たのではありません。兄弟に売り飛ばされてきました。愛する父親ヤコブはヨセフは死んだと思っています。進行している出来事やヨセフの心の内もかなり複雑な状況です。創世記39章には繰り返し「主が共におられた」と記し、長いヨセフ物語に登場する神の名の12回のうち8回がこの章に書かれています。ヨセフのアイデンティティの危機に比例するかのようです。家族から妬まれ、いらない者とされたヨセフは壮大なエジプト文明の中でどのように自分を保つ事が出来たのだろうと思います。曾祖父アブラハム、祖父イサク、父ヤコブに与えられた神との約束の物語を繰り返し思い出しては、それにしがみついていたのではと思います。前を進み得ることの出来る唯一の傾きでした。現代のキリスト者のアイデンティティを思っています。あらゆる負い目が残り、後ろ指をさされアイデンティティの危機があったとして、また例えそれが罪の結果の苦しみであったとしても、十字架は神の誠実の証拠、罪赦された証拠、愛する者とされた保証書のように見えます。ローマ書3章には、こう書いてありました。「人は皆、罪をおかして神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を贖う供え物となさいました。それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。…では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」




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