巻頭言
2018年7月


2018年7月1日

「パウロのちゃぶ台」

犬塚 契牧師

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 <コリントの信徒への手紙U 12章1-10節(9-10節)>

弱さを強さに変えてとか、弱さをバネにしてとか、そういう前向きな姿勢や

生き方は、日常においても聞くことがあります。大切な励ましになりますし、そう語る人の姿は、だいたい頼もしく、魅力的です。しかし使徒パウロが語るのは、それらとはなんだか違う響きが残ります。パウロの持っていた弱さは強さへ昇華しているわけではありません。かつての弱さを打破して振り返ったのでもありません。弱いままで、それが残されたままで、侮辱と迫害と行き詰まりの状態にあります。だからこそ開かれざるを得なかった心と耳に主イエスキリストの言葉を聞いたのです。不思議な語り方ですが、まったく分からない世界ではありません。きっと信仰者はそんな耳をいただいて細い声を聴いてきたのだと思います。強いものは強い。強さは価値を保証し、強さはあらゆる課題を凌駕する力だとする世界観をパウロは静かにひっくり返しました。そして2000年を経ても幸いにも、それはひっくり返ったままです。弱さを覚えるとき、もう一度耳をそばだててみたいのです。侮辱を感じたり、窮乏を覚えるたり、行き詰まりにたどりついた時、もう一度目をつぶってみたいのです。聞こえる声と沸く祈りがありでしょうか。誰もが初めての昨日を過ごし、今日を生き、明日を迎えて暮らします。聖書の約束は万能で確固たる答えでなく、どの日にも主イエスキリストがあられることです。


2018年7月8日

「人生ミルフィーユ仕立て」

犬塚 契牧師

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 <創世記12章1-9節>

どういうわけか世界に散らされている人々の中から、後に「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを神は選んで、彼とその一族をモデルとされました。「この人たちを見ると神が見える」と言われるようなモデルです。12章は、その最初のシーンで、神がアブラハムを呼ばれた(召命)ことが書かれています。「行先も知らずに」信仰だけで旅立ったということで、ヘブライ11章では信仰の偉人に数えられていたりもします。▲創世記11章から読むとカナンへの旅は、アブラハムの父テラが始めた旅だったようです。「テラは、息子アブラムと、…カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった」(11章)。文明都市ウルから商業都市ハランまでテラの家族は旅をしました。しかし、カナンを目指した旅はそこで終え、テラは死ぬまでそこにとどまることになります。テラの詳細は創世記にはありませんが、ヨシュア記24章では、テラは「他の神々を拝んでいた」とあります。月の神が、ウルでもハランでも信仰されていました。アブラハムが抱えていた黒歴史、闇歴史を見てしまった思いがします。それでも、彼は彼自身が祝福の基になるという神のことばを信じる者でした。おおよそ、ありえないことに思えたことでしょう。しかし、散りに散る悲しみの断片の統合を唯一の神に任せたのです。それを礼拝というのでしょう。礼拝とは、すべてを見渡すことのできぬ様々な断片が、神の触れられるところ(カナン)において、結び合わされ、つながりをもっていくことの作業のように思うのです。ようやく神の手において意味が生まれるのです。



2018年7月15日

「掌(てのひら)をこぼれた知らせ」

犬塚 契牧師

そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 <マルコによる福音書8章27-38節 >

マルコの8章を分岐点にして、大きな奇跡は影をひそめ、十字架、復活に至る道程が、刻まれ彫られるように際立っていきます。人々の待ち望んだメシア像と主イエスの向かわれる道は、かけ離れていました。ゆえに、主イエスは「自分のことをだれにも話さないように」と言われたのでしょう。まだ新しいメシアの姿を理解できるようになるには、時が必要でした。事実、ペトロにして、長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けるメシアの姿は、受け入れがたいものでした。マルコは省きましたが、マタイはペトロの訴えを記しています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはいけません」(マタイ16章)。所有者、権利者、知恵者らに圧倒的な勝利をしてこそのメシアではないのでしょうか。殺されゆく敗北の末には、みじめの花がさらに踏みつぶされています。しかし、主イエスは、その道を行かれるし、復活は十字架を通り、救いはそこから来るのだと語られます。それはとても人の掌には留めておけない知らせです。すでに両手をこぼれて溢れています。自己中心性、利己主義の流れが、歴史上始めて主イエスから逆流し始めたのを見るかのようです。フィリポカイザリヤは、皇帝崇拝の盛んなところであり、ヨルダン川の源流の場所でした。▲1960代、公民権運動の中にあったアメリカで、テレビは高圧放水に打たれる人々の姿と警察犬を向けられるデモ隊を映し出していました。しかし、キング牧師をリーダーにしたその運動は非暴力と不服従を貫きます。やがて圧倒的武力でも強大な憎しみでもないものが、黒人と白人を隔てていた壁を壊します。▲ふと破れる時、ふと負ける時、ふと奪われる時、不当に評価される時…。出来事が掌をこぼれる時、そこに良い知らせは響くでしょうか。



2018年7月22日

「その罪人で最たるもの」

犬塚 修牧師

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 <テモテへの手紙T 1章12-17節>

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。…・…・私は、その罪人の中で最たる者です」(15節) パウロは自信に満ちた強い人であった。彼は能力が極めて高く優秀な律法学者として、将来を嘱望されていた。しかし、キリストと出会った後、一切の人間的な可能性を捨て去って、非常に謙虚な人となった。自分の弱さを隠そうともせず、むしろ誇り、罪人として一番先頭を走っている者となった。▼強さとは何か…救われる以前のパウロは、能力の高さ、自我の強さを誇っていた。その強さは、弱い人を傷つけた。トラブルメーカーとなる原因は、独善性、偏狭性、排他精神などにある。パウロは、主と出会った事で、自分の中に、真の愛が宿っていない事を悟った。愛や信仰は自分の内から湧いてくるものではなく、神からの恵みなのだと、ようやく知った。私達にとって、自分の弱さや罪深さを洞察する事は大きな恵みである。その人は、必死で主を求める謙虚な人となるからである。▼弱さとは何か…・弱さは罪と深い関係がある。「罪」は「犯罪」という意味ではなく、「的外れ」の生き方である。「こうであってほしい」と願っても、自分の思い通りにならず、どこか、的を外す失敗を繰り返すのが私達ではなかろうか。完全な歩き方は非常に難しい。どこかで失敗や、油断、過ちを犯してしまう。その結果、落ち込み、自分が゛いやになったり、他人を恨み、天を呪う事さえする。▼しかし、イエスはそのような弱い私達を責めず、救い出すために来られた。主を信じて救われた人は大観覧車の乗っている人に似ている。地上で、苦しい事、辛い事が多々あっても、上に上って行くならば、その難問題も、遠くに視界から遠ざかっていく。彼は思い煩いから解き放たれていく。主を信じる人は、いかなる難問題にも、打ち勝つ秘訣を授かっている。▼彼はキリストの御手に中に生きるからである。御手こそが絶対的な安全な安息所であり、誰もその人を襲う事ができない。従って、私達は自分の罪や弱さを素直に認め、キリストの強さを身に付けよう。私達のすべての欠点も罪も、主は完全に覆われる。「私は罪人です」という言葉は決して自己破壊的で自虐的な言葉ではない。パウロは、嬉々としてそのように告白している。罪深さを知れば知る程、神の恵みの巨大さに気づくようになったからである。その人は、全身全霊を傾けて、主の所に走る人となる。私達もこのパウロのようになりたいものである。



2018年7月29日

「ただイエスだけがおられた」

犬塚 契牧師

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。…すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 <マルコによる福音書8章2-13節>

3人の弟子たちを連れて山を登る主イエスキリストの姿。フィリポカイザリアを北に少し、2800mを超えるヘルモン山があります。この山の峰のどこかではなかったかと言われます。高い山ですので、日帰りのハイキングではなかったでしょう。この山で、3人の弟子たちは、先にペトロの告白“あなたはメシアです”を、天からの宣言として聞くことになります。イエスキリストの姿が目の前で変わり、服は真っ白に輝きました。律法を与えられたモーセが登場し、預言者であったエリヤが現れました。律法と預言者…旧約聖書を代表する二人の登場に、ペトロは驚いて記念のモニュメントの建築を進言します。意外とミーハーな反応ですが、ペトロはこの経験を後に方々で伝えたのだと思います。ペトロの手紙にその様子がありました。『わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。』(Uペトロ1:16-18)▲ヨハネからのバプテスマに聞いて以来の声が響きます。そして、「これに聞け」との言葉が付け加えられています。律法で果たせなかった事、預言で届かなった言葉を十字架の主イエスキリストは為そうとしています。これに聞け。イエスキリストは、見えない神の言葉、神の本音です。




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