巻頭言
2017年7月


2017年7月2日

「神のもの」

犬塚 契牧師

あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。                    <出エジプト記13章>

昨年の秋に植えた木は、白い可憐な花と美味しい赤い実がつくと書いてありました。半年を待って、春に咲いた花はあっという間に散り、美味しい実は鳥がついばんでしまいました。数か月まった楽しみは瞬く間に過ぎ、また今、来年を待っています。クリスマスを待つ待降節にしろ、イースターを待つ受難節にしろ、キリスト教信仰の中で待つことは必須のようです。出エジプト記13章。海が分かれる場面はまだ先です。マナが降ってくることも、泉が湧くこともこれからです。しかし、出エジプトの歩みの節目において、振り返るべきこととその方法が書かれています。除酵祭という膨らませないパンを食べる期間の定めがありました。エジプト脱出の過程で疑いようもない奇跡と導きを経験した第一世代は、第二世代にそのことを伝える使命がありました。子どもたちは、聞くようになるでしょう。なぜこの時期に、わざわざまずいパンを作るのかと。親たちは答えたのです。悠長にパンを膨らませていられないような状況下で「主が力強い御手をもって」エジプトから導き出されたことを忘れないためだと。やがて彼らは、額と腕(頭と心)に13章の言葉を書いた羊皮紙を小箱に入れて、結びつけて祈るようになりました。イエスキリストの時代その箱が大きくなりすぎたようです。当時、箱を見たイエスキリストの言葉があります。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」(マタイ23章)▲出エジプト記から、待つことと覚えることを命じられた神の御心を考えてみます。恐怖心を植え付ける目的でも、単に力を顕示するためでもありません。人はやがて大切なことの多くも覚えておけぬものです。しかし、人生の春夏秋冬のどこを生きようとも、人を貫いて在る神であることは、覚えたいと願うのです。


2017年7月9日

「はじまりのこと」

犬塚 契牧師

初めに、神は天地を創造された。 <創世記1章1節>

聖書の最初の言葉です。江戸時代の末期、18歳の新島襄はこの言葉に震えて、キリスト信仰へ導かれました。移り行く時代と混迷の世の中で、造られた神の存在を求めずにいられなかったのでしょう。私は、彼のように震えて読んだことはありません。しかし、次第にこの「初め」に込められた神のお心に静かに感動できるようになりました。▲聖書は、神の存在証明から始まってはいません。疑心になびく人間が納得できるような説明から語り掛けてはいません。それは、威厳ある宣言から始まります。「初めに、神は天地を創造された」の「初めに」とは「はじまり、はじまり〜」の合図ではありません。よーい、ドンの号砲でも、「とりあえず」はじめたのでもありません。「初めに」の響きに、その後に起こりくるであろう一切の幸いも受難も見通しながら、なおコトをはじめた神の御想いを聞きます。神の覚悟を聞きます。しかし、それは歯を食いしばったものではありません。天地創造の初動が、どんなにか神の感動のうちにはじまったのかを覚えておきたいと思います。それは、地を生きる信仰者の唯一の希望です。歩む季節が、荒野の40年だろうと、沈黙の400年だろうと隠されたる2000年だろうと、あまり大したことではありません。人は人であり、神は神です。神は良いものとしてコトをはじめられました。しかし、人間は堕落しました。それでも、世界は贖われ得るのです。聖書の描かれた世界観を思います。天地創造、出エジプト、キリストの受肉、十字架、復活そして、マラナタ(主よ、来たりませ)までの歴史の一部を信仰もって埋める仕事があります。その仕事を礼拝というのでしょう。神のみわざに、心から(心のどこかで、心の底で、心の内外で)感動し、礼拝をすることの幸いを覚えていきたいと願うのです。



2017年7月16日

「どうして、しるしを」

犬塚 契牧師

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 <マルコによる福音書8章>

4000人の給食のうわさが広まったのでしょうか、イエスキリストのもとにファリサイ派の人々が試みにやってきました。当時、「神からの使者」は、その証拠を万民が驚くような異常性をもって証明することを求められたようです。「試そうとして…議論をしかけた」ファリサイ派の腹は、純粋な求めではなく、4000人の給食も地味に見えるような「天からのしるし」を成せば、「神の使者」と信じてやろうという主客逆転がありました。それにしても、ファリサイ派だけの話でなく、「しるし」や「確信」に弱い人の姿を思います。それがない時は、苦しいほどにそれを求めます。揺れ動く自分が許せないのか、不安を締め出したいのか、不信仰や罪に思うのか、さっさと課題から楽になりたいのか…理由はいくつもありそうです。しるし・確信は、持てばそれを持て余し、人を裁く理由にしたり、失わないように躍起になってしがみついたりもあるでしょうか。人とは、不自由な存在です。イエスキリストが語られたことを考えます。「しるし」とは、異常さの中の神の証拠でなく、イエスキリストご自身のことです。底を行く十字架と復活の希望なるイエスキリストは、私たちの生きる課題のすべてを覆う神のしるしです。それで十分なのです。



2017年7月23日

「権威ある者として」

犬塚 修牧師

「黙れ、この人から出て行け。」 <マルコによる福音書1章21〜28節>

 柔和で愛に満ちた主イエスが、「汚れた霊にとりつかれた男」に「 黙れ! 」と厳しい言葉を投げかけられた。その理由は、彼を危険な状況から助け出すためであったと言えよう。私たちはついつい「自分は問題ない、大丈夫」と、思ってしまうことがある。しかし、その見方が甘すぎる場合がある。彼にとっては「汚れた霊」が留まっていることは、普通のことであったかもしれないが、実は恐ろしいことであった。その危険を察知して、主イエスは「黙れ」と言われた。汚れた霊の特徴は何か?……24節から判断すると、次の4点である。これを取り除くことが本当の癒しである。(1) 主イエスの権威を低く見ること。……この霊は「ナザレのイエスよ」「と呼んでも「主よ。助けて下さい」と言わない。私達の救いは「主よ、あなたは救い主です。あなたの愛と権威を信じます」と真摯に告白することから始まる。(2)主イエスを自分の生活の中に入らせないこと。……「この問題は私達だけで解決しますので、イエスよ、どこかに行ってください」と主の愛の介在を拒否することである。そして、心を閉ざし、狭いたこつぼの中に隠れようとする。それは一見、安全で、気楽に見えても、結局、たこにとっては漁師に採られる結果となる。私達はキリスト信仰に基づいて、窮屈な世界から出、自由で、のびのびした生き方を志したい。主イエスを信じ、受け入れ、人生の完全な導き手として信じたい。(3)被害者意識に縛られていること。……汚れた霊は、本当は加害者であるのに、逆に自分を被害者にしている。相手を責め、相手のせいにする。いつも相手が悪く、自分は正しいと思い込む。魂の救いは自分の罪の深さを率直に認めるところの「真摯な悔い改め」から起こる。そのためには、主イエスと真正面から向き合うことである。いかに自分が間違っていたかを強く感じ、高ぶった心が砕かれたいものである。その時、赦しと慰めの主イエスは、十字架の愛で、私達に無罪を宣言して下さる。完全に清い者と見なして下さる。心が薄汚れ、かつ緋のように紅く罪が燃えていても、雪のように白くして下さる。(4)主イエスに従うこと……主は私達に「決断と実行」を求められる。主の命令を知っているが、私達はその言われることに従う事がとても少ない。すべてのものは主のものなのに、自分のものと思い違いをしたり、もったいなく感じ、自分の都合のためだけに使いやすい。それは、自分を絶対者、神の座に置く誤った生き方となる。このような自己中心的な生き方から離れ、必死の覚悟をもって、主に忠実に従うならば、どんなに豊かな実を結ぶ人生が展開していくであろうか。



2017年7月30日

「御顔を避けて」

犬塚 契牧師

アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」  <創世記3章>

堕落前、「善悪の知識の木」の横をアダムと女が過ぎる時、彼らは自分たちの届かぬ存在を思うことができました。管理を任された管理人は、その園の真の所有者を思い起こしました。被造物は、造り手を覚えました。「善悪の知識の木」は、神の罠ではなく、自由な応答を求める神の恵みのはずでした。他にあらゆる食べ物がありました。不幸な関係ではなかったはずです。しかし、蛇のそそのかしは、二人にとって強烈なものとなりました。彼は実を食すことで、神への反逆を表し、神の顔を見ることができなくなりました。人は、もうそのままでは生き得なくなりました。▲自覚的でなく、はるか昔のおとぎ話のように読んできました。蛇が話すなんて…、蛇?サタン?悪を造ったのは誰…、しかし、次第に創世記の最初の堕落が実に今日的な出来事だと思うようになりました。根源的に残る哀しみにエデンの追放の結果を想います。「生かされてある命」は、神から分捕られて「生きる命」に変わりました。自分で善悪を決め、自己証明しなければ生き得ないように感じます。「人は病的に人との違いを探す」とは、ダルクの創設者の近藤恒夫さんの言葉です。「どこにいるのか」エデンに響いた神の声は、聖書の中で最も悲しみに満ちた声です。この声の深さに身を置く時、人は癒しを知るのだと思います。




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