巻頭言
2016年7月


2016年7月3日

「共振」

犬塚 契牧師

 彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 <出エジプト記 2章11-25節>

 出エジプト記2章の後半部分は、使徒言行録のステパノの説教によるとモーセの40-80歳の出来事が書かれています。ヘブライ人として生まれ、無慈悲な命令下に川に流されるも奇跡的に救い出され、エジプトの王子として成長したモーセです。そのモーセは、40歳になって腹を決めたように思えます。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き…」(2:11)とある通りです。ヘブライ人として生きていくと決めた彼には、もうエジプト人の暴行が許せず、燃え上がった正義感によって、エジプト人を殺めてしまいます。次の日、同胞であるはずのヘブライ人からも、何様のつもりかと問われ、エジプト人でもなくヘブライ人でもない自分を見せつけられるのです。逃げた地で家庭を持ちますが、子どもにゲルショム(寄留者・根無し草)と名付けるモーセです。▲モーセの苦しみの多い40年が2章の後半部分に集約されていることに驚きます。人生の一番の美味しい時期に思えるこの時をモーセは、エジプト人が嫌う羊を飼い、かつての王宮で学びを振り返り、やがての自分を見据えることができずに過ごしました。人とは時の中をからだをもって生きる存在です。逃げだし得ない面倒さを引き受けています。心で理解し、頭で納得しても、からだが動かないこともあるでしょう。生きることの困難を皆が皆それぞれの場所で負うています。「心は燃えても肉体は弱い」とは主イエスが一番恐れの中にある時に眠っていた弟子たちへの言葉です。人への深い理解を感じます。▲出エジプト記がモーセの塗炭の40年を半ページで展開していることになんだか悔しさを覚える気もします。それでもまた3章以降のモーセへ取り扱いを見る時に40年のうち、一日とて神のまなざしからはずれることはなかったのだと思うのです。



2016年7月10日

「空っぽの男の歓喜」

犬塚 契牧師

 神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。 <サムエル記下 6章>

 神の箱の中には、かつてモーセを通してイスラエルの民たちに与えられた十戒の石の板が入っていました。神の箱のあるところが神の臨在のあるところでした。一度、イスラエルの祝福の理由が神の箱にあると理解したペリシテ人によって奪われていましたが、むしろ災いにあった彼らによって再び戻されていました。(サムエル記4,5章)ダビデ王は、エルサレムを政治的にも宗教的にも中心にしようと願い、神の箱を運び込もうとしました。しかし、一度目は牛に運ばせる方法を用いて、つまづき、ウザという人の命を失ってしまいます。ダビデは嘆きます。「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」(6:9)そんな時に神の箱を預かったのが、オベド・エドムという人でした。よく素性の分らないこの人は、歴代誌上15章によると門衛であり、演奏者でもありました。二つの働きはできないだろうということから、同名の別人ではないかと言われますが、教会の中にもお掃除の奉仕と聖歌隊の奉仕を兼ねておられる方々がおられます。きっと同じ人だった思います。どちらの奉仕も神の箱の近くにいれる奉仕でした。神の箱を守る形で門衛に立ち、掃除をし、さらに近くで歌い、演奏をしました。オベデ・エドムはそれを喜ぶ人でした。神の箱のそばにありたいとの願いは、人生を神と共に歩みたいとの願いでありました。誰もが恐れが「神の箱」を受け入れ、3か月間守り、祝福を人々に知らせて、神は本来祝福を与える神だと伝えました。彼を見たダビデは、再び準備を重ねて、神の箱を受け入れたのでした。そして、その横で歓喜にして歌います。神そばに生きる喜びを体あらわしたのです。神の箱は、現在は失われています。しかし、神の臨在も失われたわけではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18章



2016年7月17日

「泥に混じる希望」

犬塚 契牧師

 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。    <マルコによる福音書6章>

昨今の事件、面識のない人が突然襲われたり、恨まれるはずのない人が殺されていたり、目があっただけで事故を起こしたり、ニュースを聞くたびにドキッとします。ギョッとします。家族、親族、友人の悲しみの深さを思います。マルコ6章は、最後の預言者ヨハネが、パーティの余興のごとく殺された時の回想場面です。上記個所、ヨハネの弟子たちが、二つに分けられた師の遺体を引き取った時、あらゆる否定的な感情をいだいたことと思います。そして、そんな余韻を残したまま、この記事が終わっています。6章は、イエスキリストが、弟子たちを伝道に派遣したシーンと、その報告をする記事があります。その間に、唐突に挟み込まれたように「ヨハネの惨殺」があります。ここでの報告は不必要に思える「伝道旅行」に水を差すような出来事です。「届かなかった神の手」を、ヨハネの弟子たちの遺体を引き取る弟子たちの背中に感じてしまいます。マルコはなぜこの場面でこの報告を入れたのだろう思います。▲記事前半部分ですが、イエスキリストの働きが方々で知られるようになり、やがて「イエス」という言葉をヘロデ・アンティパスが耳にするようになると、彼はかつて命を奪ったヨハネが生き返ったのではと怯えているというのです。ヨハネの体は殺せても、なおヨハネの言葉、神の言葉が生き続けていました。さらにヨハネが辿った道を、イエスキリストも行くことになります。さらに厳しい十字架の道です。そして、十字架の上で殺されてしまいます。しかし、今…。しかし、今…。マルコは踊ったのでしょう。そのイエスキリストが「すべての支配や権威の頭」として立たれているではないですか、と。人の知恵が想像だにし得ない、神の逆転がキリスト信仰です。▲「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。」コロサイの信徒への手紙2章10節



2016年7月24日

「イエスを見つめながら」

犬塚 修牧師

 「自分に定められている競争を忍耐強く、走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」   <ヘブライ人の信徒への手紙12章1-2節>

 孤立、孤独、疎外感があると、生きることが辛くなってしまうものである。しかし、イエス・キリストを信じて生きる人は「おびただしい証人の群れに囲まれている」(1節)ので、決して不安と恐れの霊に支配され続ける事はない。自らの後ろを振り返るならば、アベルからおびただしい信仰の勇者たちが存在している事に気付く。故に、私たちは、人生の重荷や罪をかなぐり捨てて、イエスに従おう。これらは、いつの間にか着物のようにまとわりついてしまっている。これらを脱ぎ捨てる事が大切である。また「自分に定められた競争」とあるが、私たちは一人一人神の召しによって唯一無比の道が備えられている。それは誰も評価し得ない程の貴い生涯となる「狭い道」である。その道を行く時、私たちはがむしゃらに突き進むのではなく、主イエスを見つめつつ走るのである。この「見つめる」は「遠くから眺める、見渡す」の原意である。主が十字架につけられた時「婦人たちは遠くから見守っていた」(マルコ15:40)とある。近過ぎると本質が見えなくなる。遠くから見て初めて全体像が分かる。天には黒雲と稲妻、ゴルゴダの丘には三本の十字架、そして嘲る群衆の姿を婦人たちは目に焼きつけた。そして、イエスの贖いの事実を語っていくように導かれた。「群盲象を評す(なでる)」というインドの寓話にあるように、私たちは主イエスの一部分しか知らないで、すべてを知っているかのような思い違いをしている事がある。そして、主の偉大なみ力を少なく見積もってしまい、みわざを信じない事もあり得るのである。 先日「祈りのちから」というキリスト教映画を観た。そこには、祈りこそが人生の勝利の秘訣というメッセージが語られていた。私たちは自分の罪深さ、弱さを主に告白し、ひざを折って祈り始める時、豊かな救いが進行していくのである。人間の手や努力では、決してできない事に関しては、主のみ力を信じ、ゆだねる必要がある。もし、私たちが大きく目を開き、イエスの救いの大きさ、そのご計画の広さを悟り得るならば、必ず望みの港に到着できると信じる。



2016年7月31日

「惨憺に響く声」

犬塚 契牧師

 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」           <出エジプト記3章>

 エジプトの圧政の下に苦しむへブラ人の子として、モーセは生まれました。ちょうど、男の子はすべて川にほうりこむようにとの命令が下っている時でした。神の計画と姉ミリアムの知恵、家族の諦めぬ望みあって、王女に引き上げられ、王子として育ちます。着るもの、食べるもの、学ぶこと、考える視点は、エジプトの最高のそれでした。しかし、40歳の時の殺人から、逃亡者となり、その後40年間、誰も訪ねて来ることのない「羊を飼う地域」で暮らすことになります。すでに燃え尽きたモーセに、神が語り掛けるシーンが出エジプト3章です。柴とは、「雑木」です。名が必要でもない、切られて燃料となるが精一杯の、そう価値あるものではないのです。その柴が燃えていますが、それが燃え尽きないのをモーセは不思議に思います。すでに燃え尽きた自分に重ねてもみたのかも知れません。「道をそれて」モーセは近寄ります。それを見て、神はモーセに語り掛けるのです。「モーセよ、モーセよ」▲モーセはそこで聞きます。立っているところが、辺境と孤独の地でなく、「聖なる地」であること、語りかける神は、「あなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」であることを。誰も目に止めることない場所に住む、燃え尽き老いたモーセが神の使命を受けようとしていました。▲燃えていたのが柴だから、この時のモーセは近寄れたのだと思います。「道をそれる」には勇気が必要です。惨憺を生きるモーセに響く声の形として、最もふさわしいものでした。柴に神の臨在があるとは思いませんでした。遜りたる神の姿をみます。歴史を進めて、十字架の主イエスキリストを思います。これで、どうにか届くだろうかとの神の渾身があります。それを受けて、ようやく半歩前に足をのばす者です。




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