巻頭言
2015年7月


2015年7月5日

「種を蒔く人」

犬塚 契牧師

 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。   <マルコ4章1-20節>

 マルコによる福音書の1章で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と始まったイエスキリストの宣教。それでも4章に至るまで「神の国」とはいったい何かをマルコは記していませんでした。4章に集められた4つのたとえ話のうち2つは、「神の国は次のようなものである」とか「神の国を何にたとえようか」との語り出しがあり、神の国の様子がたとえで伝えられていることが分かります。世界の地図が上手に色分けされているわけではなく、国境が明確でなかった時代、国とはその王や施政者の支配が及んでいるところまででした。神の国とは、やがて、死の先に訪ねる国のことではありません。「神の国」とは、神の支配があるところであり、神のお取り仕切りが働く場所です。▲4章の最初のたとえ話。種を蒔く人が、種を蒔くと4種類の場所に落ちました。路地、石地、イバラ、良い地。路地の種は鳥のエサとなり、石地には根が着かず、イバラが遮って実がなりませんでした。良い地の種は、たくさんの実をつけました。なんだかなぁ、当たり前の話に聞こえます。別に、神の国のたとえでなくともよし、自然の法則となんら変わりないではありませんか!自分の内の路地も石地もイバラも知る故になおのこと、やっぱりなぁという悔しさがあります。▲それでもこのたとえは「種を蒔く人」のたとえです。蒔かれる畑のたとえではありません。実るか実らぬか、それでも蒔き続ける神のたとえです。4種類のどの地も自分の内にあります。神の言葉が聞けぬ時、すぐに反応したけれど続かなかった時、いろいろな障害に上を見上げられぬ時…それでも福音の言葉に確かに心が癒される黒い土もあるのです。▲コンクリートの裂け目にすみれが咲いているのを見て、写真を撮りました。神様、こういうこともあるのですね。蒔き続ける方に感謝するばかりです。



2015年7月12日

「主よ、なぜなのですか」

犬塚 契牧師

 ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないの か。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。 <出エジプト記5章1節-6章1節>

 モーセがファラオに行ったイスラエルの神への礼拝の申し出…勇気の必要な直訴…。出エジプトの最初ハードル、ここをスムーズに通さないとは、 神の沽券に関わることだと思えます。最善のシナリオを描けば、ファラオが自分以外に神いることに驚いて悔い改めて、共に礼拝する者となって、 ハレルヤ!でしょうか。しかし、5章の展開は、最善からほど遠く、最悪に近いところを 辿ります。「主とは一体何者なのか」と言われてしまうことをどうして神は許されたのでしょう。命を懸けて、ファラオに直訴したイスラエルの下 役たちの願いは微塵も叶えられませんでした。ひいては、モーセとアロンを責めることにつながります。彼らが持っていけるところは、神以外にあ りませんでした。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。」▲ファラオは自 分以外の神の力を試すように、悲しき圧政を強めます。下役は嘆きを絶叫に替え、モーセは両手を天にひろげて祈ります。5章全体が「主とは一体何者なのか」と叫んでいるようです。それは、神を試し、嘆きをぶつけ、 祈りを込める…私たちの腹にある言葉でもあります。▲神は力を見せつける方法ではなく、魔法の杖の一振りでなく、すべての信号を青に変えるで もなく、苦しみの伴ないの中に見出されることを望まれました。ポール・マーシャルはこう書いています。「この世が求める「明日の成功」は、(聖書には)私たちに約束されてはいない。私たちは、 将来の成功に焦点を当ててもならない。成功するように召されたのではなく、起こりくる問題に取り組むたびに、神に従う道を今日も明日も選び続 けるよう召されているのである」。▲独りよがりの神ならば、全能を売りにするかも知れません。しかし、イエスキリストは、一対一という小さな 規模で起こることを大切にされました。難しい議論の果てを追い求めたのでなく、癒しと慈愛の手をのばされました。



2015年7月19日

「それでも笑っていればよし」

犬塚 契牧師

 サラは言った。「神はわたしに笑いをお 与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」<創世記21章1−8節>

 イサクの誕生。12章から始まったアブラハムとサラ夫妻の曲折を振り返れば、サラが多弁なのも分かる気がします。突然の旅立ちと旅先での苦労。イサクの誕生は、本当に嬉しかったのです。子どもにプレゼントをあげた親は、子がそれを喜ぶのをみて自分も喜ぶように、21章のサラの喜びは、神の喜びでもあったことで しょう。いやむしろ、神の喜びが先にあって、その喜びを知ったサラの喜びであったようにも思えます。この日を心待ちに準備する神の心をサラは 知らされたのです。神の本音を知ることが救いであるとするならば、神が笑いを与えようとの本気を知ったサラには、それだけで救いでした。▲4月から「不登校新聞」なるものを購読するようになりました。「親は、笑っていればよし」というコラムがあって、そのタイトルが気に入っています。不登校や心の病、依存症…本人も家族も、みんな苦労を重ねています。いくらでも、重苦しく深化した形で書くことも可能な課題です。しかし、「笑っていればよい」とタイトルは謳います。▲アブラハム一家の旅を追いながら、この世においては寄留者である私たちのことを考えます。いつも何かと何かの間を生きます。どちらか一方に、完全に属しきることができずに、また何かに丸ごとにひたりきることができずにいます。どこかに恐れがあり、渇きが残ります。「それでも笑っていればよい」と21章のサラを通して知りえるでしょうか。▲サラの笑いはこの日のみの刹那な笑いではありません。とりあえず、今日は笑って…ではありません。ここに至るまでに導かれた神の愛と熱情への気づきと応答です。人が生きるに、間は時にあまりにも広く大きく感じます。生き抜けぬのではないかという幅に揺れます。時に狭く窮屈に思うこともあるでしょうか。それでも神のおこころは、私たちへの笑いです。それでも笑っていればよし。



2015年7月26日

「イエスと共にいる」

犬塚 修牧師

 「議員や他の者たちはペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかし二人が無学な普通の人であることを知って驚き、またイエスと一緒にいた者であることも分かった」 <使徒言行録4章13節>

 イエスの復活を公に宣言していた弟子たちは、ユダヤ社会の権力者に捕らえられ、獄屋につながれた。翌日、二人は議会に引き出され、糾弾されたが、二人が力強く主の復活の事実を告白し、死を恐れる気配が全くなかった。以前の小心で臆病な態度はどこにもなく、その変貌ぶりにあっけにとられた。彼らの確信が、特別な個人的な能力や人間的熱情によらない事は明らかであった。二人は相変わらず「無学で普通の人」に過ぎなかった。「普通」は「俗人、素人」という意味である。その彼らがきわめて強い確信の人と変貌を遂げたのは、「イエスと共にいた」という実体験にあったのである。「他のだれによっても救いは得られません。私達が救われるべき名は天下にこの人のほか、人間には与えられていない」(12節)と大胆に語っている。▲ もし私達の心に怒りや不安や恐れが棲んでいるならば、密かにイエス以外のものに、無意識的に期待し依存しているからではなかろうか。私達は主によって、すでに信仰によって自立しているはずなのに、どうしても、人の言葉をそのまま受け入れ、傷つき、心が落ち込むのはなぜか。それは人の言葉 を、無意識的に主の地位に押し上げてしまっているからではなかろうか。真に信頼すべきはイエスの言葉のみである。▲「隅の親石」(11節)はアー チ状の門等を築き上げる時、最後に据え置く石である。これがないならば、門はわずかの揺れによっても、もろくも崩れてしまう。私達の人生を盤石とするためには、どうしても「イエスという親石」を据えねばならない。これは死活問題である。これ以外のものを持ってきてはならない。「人は皆、罪人であり、病人」(ロマ3章)であるから、人に対しては、その言葉に一喜一憂してはならず、むしろ、名医が苦しむ患者に暖かく接するように憐れみと寛大な気持ちで受け止めたいものである。▲40年間、羊飼いであったモーセは、ついに「いつまでも消えない燃える柴」を目撃し、主と出会った。「柴」は木の中で最も低く燃えやすい普通の木であったが。そこに主が臨在された。モーセは自分が柴に似て、己の貧しさを知りつつ、そんな自分を愛し、選ばれた主の愛を悟った。「燃え尽き症候群」であった彼が再び、主の愛の炎に燃やされ、立ち上がった。そして、その小さな炎はいつまでも消え去る事はなかった。




TOP