巻頭言 2013年7月 |
「キリストを内に」
犬塚 契
わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。 ガラテヤ4章19節 |
パウロが病んでいる時に、むしろそれがきっかけとなってできたガラテヤの教会…。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(13節) パウロの伝道旅行中に起きたイレギュラーの出来事。先に進みたいパウロは、休まざるを得ない病を患った。どんな病かはわからないが、涼しいガラテヤで静養の必要があった。神を信じる人に祝福とは映らないような病が襲う…しかし、それが人々のつまづきとはならず、恵みの主を知ることにつながった。きっと、最初のガラテヤ教会は、よい雰囲気をもった教会だったのだと思う。しかし、ユダヤ主義者たちがやってきて、かつての律法を持ち出し、イエスキリストに従う道以外の裏道を教え始めた途端、恐れなくてよいものを恐れ始めた。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節) ▲いつの間にか条件がつけられて受け入れられることにどこまでも馴染んでしまった。そんな中で、恵みという響きは、異様だし、ほとほと不慣れなのだと感じる。信じられないと反応する。ガラテヤの教会が、最初の雰囲気から、次第に恵み非ざるものに傾きはじめたことを笑えないのだと思う。イエス様は、陽や雨のそそぎ、空を飛び交う鳥や岩陰に咲く野花にも恵みのヒントを示された。語られたたとえ話は、天の父の腹がどんなであるのかを示した。それは、99匹の羊を残して、勝手に出かけた1匹を探す羊飼の姿であり、銀貨一枚を探して見つけ出し、それ以上の出費でパーティーを開くような計算を間違えた喜びである。父の生前に遺産を求め、それを湯水のごとく散財した息子を走り寄って迎える恵みである。何度でもそこに帰るものでありたい。キリストが内に形づくられる所には、産みの苦しみと喜びがある。
「知らぬところでの守り」
犬塚 契
わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。 創世記31章29節 |
ヤコブは二人の妻に自分の信じるところを話して了承と得た後、叔父ラバンのもとを逃げるように立ち去った。すでにラバンのところに来てから20年の月日が過ぎていた。ヤコブが兄エサウの祝福の強奪をするとことから、ヤコブのストーリーを追って読んでいる。騙してまで得たかった祝福をヤコブは本当に得ているのだろうか。奪った祝福に本当の有効性があるのだろうか。祝福とは何だろうか…。聖書がわざわざ描くこの家族の歩みから、神の深い取扱いと変わらぬ導きを感じる。ヤコブ家族の歩みはたいして理想的ではなく、小さなつまずきの石も大きな障害の岩も残されたままに思える道程である。ひとつ解決すれば次の山が見える。一つ取り扱われると次の課題がまた残っている。それでもヤコブは20年の試みの時に緊張の続く毎日の中にあっても祝福を見ることができるように訓練された。私達もまた同じ導きの中にあると信じて良いと思う。願ったような場でなくても神の導かれた場所で神の選びと召しに生きる。そのことはすでに祝福である。▲31章愛された妻ラケルは幼い時から馴染んでいたラバンの家の守り神を旅の安全のために盗んでしまった。それはヤコブも知らないことであった。ラバンが追ってきた時に守り神のありかを聞かれて、盗んだ者がいれば石打にすると言ったヤコブ。しかし守り神を盗んだのはラケルであった。危うくヤコブは妻ラケルを失うところであり、ラバンは大事な娘を失うところであった。守り神はラケルのお尻に敷かれても何も表現することがなかった。上記の神の言葉が無ければ、ラバンはそのことを自分で解決しようとしたと思う。▲神様ご自身は私達の弱さを良く知っておられる。「よく心に留めておきなさい」と言われる。私達が良き実を結ぶ民と整えられるように。
「神の国は近づいた」
犬塚 契
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 マルコによる福音書1章14−15節 |
「それから」とは、イエスキリストがヨハネからバプテスマを受けてからすぐを表している。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえてから、すぐである。「愛する子・心に適う者」は、もっと大事にされてもよさそうに思うが、聖霊がイエスを荒野に追いやった。バプテスマを受けて後の試練の時、荒野での試みである。まったなしの崩されるような時である。福音書の中で最も早い時期に書かれたマルコの福音書には、他の福音書とは違って、誘惑の詳細も勝利宣言もない。マルコはそれらを知りながらも、あえて省いたのだろう。マルコの色濃くなぞった主イエスの歴史は、彼の知る当時のキリスト者の歩みの写しであり、2000年後を礼拝をしつつ生きる現代のキリスト者の歩みと重なる。そして、その後に、イエスキリストの宣教の第一声が響く。「時が満ち、神の国は近づいた」。▲この「時」とは、普段流れるような「時(クロノス)」でなく、「ここぞの時(カイロス)」である。ここでなければならに理由がある時である。しかし、人の目にこの時は、大してよい時とは思えない。バプテスマのヨハネの理不尽な逮捕があり、それは後に殺害へとつながる。そんな雰囲気のときである。イエスが戻り、第一声を聞いたガリラヤは、なおヘロデ・アンティパスの支配下にあった。戻る時でなく、場所を移すたほうがいいように思う。▲それでも神の国から近づいてくる。神の支配の中に置かれる。もし、最初の言葉が、「神の国に近づけ!」だったらと想像する。その遥かなる遠さに、天を見上げて途方に崩れる。正確に聞こう。「神の国は近づいた」。それが、神の目にはもっとも相応しい時に、イエスキリストの宣言なさったことなのだ。
「絶えず祈れ」
犬塚 修
「イエスは気を落とさずに絶えず祈らねばならないことを教えるために」 ルカによる福音書18:1〜8 |
ルネサンスの巨人ミケランジェルロの名作「ピエタ」は観る者の魂をとらえてやまない。その魅力はマリヤの左手にある気がしてならない。イエスのなきがらを抱く右手と共に、左手は天に向けられている。それは神への奉献の祈りである。人類の尊厳と高貴さは祈りにある。祈りこそが、人類にとって不可欠の力の源である。▲@祈りは気を落とさずに忍耐強くなされるべきである。―当時、弟子たちは気を落としてしまう辛さを味わっていた。自分の願ったようにならない時は、人はみんなガッカリし、肩落とし失望する。そこに悪魔は忍びこみ、祈ることが虚しいと誘惑する。ノアは巨大な箱舟を建造するように主に命じられた。自分の力では到底不可能に見える難事業であったが、彼は黙々とその建築に取り組み、ついに何十年後に完成した。もし私たちがミニチュア程度のおもちゃの箱舟を作ろうと思えば、半日でできるであろう。しかし、巨大なみ業のためには長年もかかるのである。祈りがすぐに叶えられないのは、主のご計画が、すばらしく遠大だからである。ゆえに私たちは目先の利益や近視眼的な見方を捨て、主の祝福を信じて忍耐し、希望を失わないで働き続けたいものである。▲A祈りは絶えず捧げるものである。―祈りとは主との対話、また一瞬、一瞬の呼吸である。息を止めれば人は死ぬように、祈りを怠れば、私たちの魂は死に瀕する。祈りとは私たちに残された祝福に至る未知の秘境、最大の凍結財産、未開拓の原野である。もし私たちが本気で祈り始めるならば、ふしぎな出来事が起こる。▲B祈りは熱心でなければならない。―16世紀のスコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは祈りの人であった。悪名高き血のメアリとして恐れられたこの女王は、いかなる強大な軍隊よりも、ノックスの祈りそのものを恐れた。もし自分の人生とこの社会の変革を切望するならば、祈りに情熱を傾けるべきである。教会にとって礼拝と祈り会は二本柱である。祈り会が祝福されるなるならば、教会は地の塩として、重要な聖なる働きを果たしていくであろう。