巻頭言
2012年07月


2012年07月08日

「神の覆うところ」

犬塚 契

 「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。」 コヘレトの言葉 1章

 友人が不条理に思える社会的制裁を受けていた時、どうしようにも手が出なかった悔しさから、よくよく理解してくれるであろう牧師に電話をしたことがあった。今までの交わりから想像するに並々ならぬ共感と示唆と慰めの言葉を期待した。…きっと理解してくれるだろう…この電話で多少は溜飲は下がるだろうか…。その牧師自身が関わるテーマとも相通じるものがあったので、私がそう考えたのも無理はないと思う。しかし、彼の一言目が忘れられない。「それでも生きていかなきゃいけないからね」。その言葉は、私へなのか、私の友人にか、語る彼自身へのものだったのか。大いなる期待は倒れ、代わりにいささかの覚悟が立ったように思った。▲ユダヤ人は「コヘレトの言葉」を年に一度、思い出す習慣がある。時に裏庭にテントを張って、その中で食事をし、この「なんという空しさ」から始まる12章の言葉を朗読するという。様々な価値観に囲まれ、虎視眈々と神役を狙う誘惑があり、成功と賞賛の裏打ちこそ自分の立ち位置とする時、ただ神にある、寄る、因る我を知らされる時を頂きたい。詩編の記者は歌った。「主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう あなたが思いやってくださるとは。」(詩編144編3節)▲太陽の下に響く「なんという空しさ」と「永遠に耐える大地」の対比がある。すべて移り行き変わり行くように見える中でもなお大地はそこにある。現実から出る「それでも生きていかなきゃ…」も、一切をご支配なさる神への信頼によって覆われていきたい。「それでも生きて大丈夫だ」と。全ては神の覆うところ。



2012年07月14日

「地を歩く時」

犬塚 契

 「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」 コヘレトの言葉 1章

 コヘレトの言葉が聖書にまぎれこんでいることによって、人が得体の知れない怪物になってしまわないように思う。「空しさ」から始めるこの聖書のひとつ、一人の伝道者の告白は、鼻から息をする人をそれ以上にはあらしめない現実感がある。神を抜きにしての何がしを主張できない人の姿を強く描いている。▲彼は「天の下」に起こることを見極めようと丁寧に調べた。「天の下」は「太陽の下」(3節)とは違う。見えぬところも、事の表だけでなく裏側も広く掘り下げ、思索し、調べたのだという。それは、神から与えられた務めだったけれども、「つらい」作業でもあった。▲7月7日の女性連合の修養会に参加して、仙台の教会で奉仕されている井形英絵先生から、被災した教会のお話を聞いた。あの場所で信仰者・宗教者としての問い直しのプロセスを歩まれていた。「ままならない」という言葉が耳に残った。そのままならなさでこそ響く言葉があり、出会うイエスキリストの姿がおられた。それでも「神はつらいことを人の子らの務めと」されたと感じる。考えないほうが楽ではないかと思う。動かなければ波風は立たないし、知らなければ気付かなかったと思う。それでも私たちの歩みの中には真剣に向き合うべく神に与えられた務めがあるのだと伝道者は伝えてくれる。私たちは、強さと美しさと賢さを殊更に渇望し愛する世界に生きている。それを指差す宗教やビジネスは無数に存在するのだろう。しかし、弱さと醜さ、愚かさとはかなさというままならない現実から引き離すでもなく、それでも希望いだかせることができるとすれば、それはイエスキリストの出来事にあるのだと思う。祈りの中でどうしようにもない姿を見せられ知らされながら、その歩みの底に立てられている十字架が起される。それは私にとっての新しい契約、繰り返し戻る自己証明。



2012年07月22日

「神の国の成長」

犬塚 修

 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」 マルコ4:26〜27

1.熱心に福音の種を蒔こう。―――「神の国」は「神の支配」の意である。「種」は福音、「地」は使命を果たすべき場所である。私達は、自分に託された神のメッセージを伝えて生きるように召されている。命を燃やしつつ真摯に語り続けよう。動物的に動き回る生き方ではなく、静かに大地に立ち続ける植物のように凛とした生き方を貫こう。この世の勢力に屈したり、心を弱くし、妥協してはならない。それは滅びの道となるであろう。欺かれてはならない。
2.知るべき事と知らないで良い事の区別をする。―――知るべき事は、創造主に対する不遜な罪、不義、偽善などである。人類の未来を暗くする悪事については、勇気を持って戦う事が求められている。と同時に、神の救いのみわざを信じ、あらゆることを神にゆだねる事が肝要である。種を蒔き、その成長過程に関しても同様である。無用な焦り、不安、心配は私達の心を落ち込ませ疲労させる。未来に関しては、たとえ目に見えずとも、信仰の目で見抜いて生きることである。その先には必ず神のご計画がある。
3.神は豊かな収穫を約束される―――神の国は、茎、穂、実の順序を辿る。自分の思いだけで多くの実を求めてはならない。茎は茎、穂は穂として完全なのだから。ゆえに摂理信仰に立つことである。ゆえに、神の祝福に与るには、忍耐と平安が必要である。堅固に大地に足を置き、神が約束された未来に向かって着実な一歩を踏み出そう。



2012年07月29日

「道中にある幸い」

犬塚 契

 人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。 コヘレトの言葉 2章24節

 超現実主義者の目線で書かれるコヘレトの言葉。それでも、ふと教えられるのは、支配できないことを支配しようとしない、操作できないことを操作しようとしないということ。すこし違う風が吹いてくる感じがする。「何事もあきらめが肝心」とはよく言われる。その言葉はきっとどこまでも自分主体の取捨選択があるのだと思う。「あきらめられた自分」「あきらめることのできた自分」の位置は変わらない。コヘレトの場合は、もう少し身体の移動があるように思う。頭が垂れ、膝が折れる。「委ねる」というのだろう。▲「大きなお金があったら?」と聞かれ、「北海道を買いたい!」を言った覚えがある。少年時代に遊んだ川、ボート漕いだマスの泳ぐ澄みきった湖、湧き出る温泉…よいイメージがあった。それが手に入れば何だか幸せも手に入るような気になった。コヘレトの2章は、「北海道」どころでない、世界の富を手にした男の告白である。彼は、幸いはどこにあるのかとありとあらゆることを試した。「大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。」(4節)・・・普通ではこんなに大胆にできないような実験が書かれている。それでも、成し遂げた後には乾いた言葉が彼の口に残っていた。やがて、彼が戻ってくるところは、上記の24節のような日常にあった。喜びは自分で作り出すものでなく、「神の手からいただくもの」。▲莫大な労苦と巨万の富の中にこそ幸いがあるのだとしたら、随分遠かったと思う。しかし、しばしば静まって、心駆り立てているものに神様によって気付かされ、なお取り扱いを受けて、練られていく日常にこそ幸いがあるとしたらその歩みを続けたい。





TOP