巻頭言
2011年7月


2011年7月03日

「聞いて行う」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。…イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」 マタイ7:24-29

 先週、二泊三日の埼玉アシュラムに参加ができて感謝だった。ちいろば先生で知られる榎本保郎牧師が文字通り命をかけて広げられたアシュラム運動であるから、どんなにか練られているのだろうと期待した。しかし、ヒットすること間違いのないプログラムでもなく、心鷲?みのワークショップでもなく、ただただ神の言葉に聴いていく作業だった。神の言葉を読むでなく、聞くだけでなく、「聴従」こそが命の源と教えられた。配布されたアシュラムの手引きにこう書いてあった。『わたしが神に近づく、わたしの手段・努力でなく、神さまがわたしに福音してくださる、神さまの方法・熱愛。愛を語ってくださいます。「ありがとうございます」だけ。示されなくて感謝、「示されない」と言って落ち込む資格すらなし』▲按手式のために、信仰・召命告白を書いている時にも、繰り返し示されてきたことだったので、心に響いた。間違いのないプログラムを作り上げたのでなく、神に主権をお返しする作業こそ、源であることを確認した3日間だった。わたしはいつそれをしてきただろうかと振り返って、悔い改めた時間だった。▲「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」Tコリント3章11節。イエスキリストとの関係の中に岩なる土台があると教えられる。嵐が吹いても簡単には吹き飛ばない、流されないそんな堅固な岩。そんな岩であってくださる主イエスに聴従するものでありたい。砂に立てるよりはやっかいで、労することもあり、手間がかかる。しかし、汲み続けることのできる泉、堅固な岩であってくださるとはなんという幸いだろう。



2011年7月10日

「はじまり」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 創世記 1章1-3節

 人にあげるプレゼントを選ぶ時の妻の意気込みに、結婚当初驚いた。半日をかけて、あちこち廻って、気に入ってもらえるか、この服に合わせる服をもっているか、色落ちしないか、若すぎないか、老けないか…と一生懸命だった。しかし、それほどまでに苦労して選んだ割には、渡すシーンにそれらは反映されず、意外とあっさりしているもので、「これプレゼント!」でだいたい終わる。妻の半日のみならず、私の半日も入っているのだと後ろから付け加えたくなる。▲その人の歩みが録画されていたとして、ずーと巻き戻してみることができ、最初の場面に戻ることができたら、どんな思いからのはじまりがあったかがわかるだろうか。出産や入学、結婚や諸々の記念に写真を撮り、アルバムに残したりするのも、はじまりが良きものであったことを覚えておきたいからだと思う。▲創世記の1章1節。聖書の書き出し。歴史のはじめ。聖書は、神の存在証明からはじめない。天の被造物を見ては神とし、地の被造物を見ては手を合わせていた昔、聖書はそれら一切は神が創ったのだとはじめる。世界の録画が巻き戻されて、最初の場面が映し出された時、何もないすべてが偶然のはじまりだったとしたら、その空しさに耐え得ることができない。聖書はふざけてもごまかしても書いていない。神がはじめられたと書く。誰のための「初めに」か。永遠に存在する神にとって初めは必要ない。ならば、この最初の書き出しは、人にとっての「初めに」であって、よきことを願われた神の心を指し示しているのではないだろうか。2節以降、神の霊が、まったく力なき、命なき、空漠とした有り様の中、「動いていた」とある。旧約聖書で3箇所しか登場しない言葉。エレミヤ書23章の「震える」場面と申命記32章の「羽をひろげて育む」場面。光あれとは、ただ魔法の杖でも呪文でもない。待望の、期待を込めた、愛溢れる、ここぞという場面での神のことばなのだ。これが「はじまり」でよかった。



2011年7月24日

「最初の罪」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 創世記3章9-10

 今日はふじみ教会の新しい時である。私たちが心を一つにして歩むならば、くすしい祝福が待っているであろう。私たちが主の恵みに与るためには、これから取り組まねばならない課題がある。▲私たちの日々は、罪へと誘惑するサタンとの戦いであること。私たちはそれに勝利しなければならない。蛇はエバに対して、神の言葉を軽んじ、疑うように誘惑した。その方法は狡猾で、知らず知らずのうちに洗脳されていく魔力があった。蛇(サタン)は神は人間に対して非寛容であり、冷たいという誤った考え方を吹き込む。本来は何一つ答える必要性などなく、無視すれば良かった。私たちも占い、偶像崇拝、無神論的な生き方に妥協したり、屈してはならない。甘い呼びかけを拒絶したならば、罪を犯す事はなかった。▲心からの悔い改めは、私たちを救いに導く。――――この夫婦は自分の罪の悔い改めを拒み、相手のせいにした。エバは蛇、アダムはエバのせいにしたのは無責任の生き方である。心をかたくなにすると、神の恵みに無感覚になる。もし、自分の罪の深さにおののいたならば、赦しも用意されていたと思う。▲み言葉を軽んじてはならない。――――エバは蛇に「触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3節)と答えているが、神はそんな事は言われていない。(2章16〜17節参照) ここに神が非常に厳格なお方という誤解をある。神は言われた。自己中心的になると、神から自立しようとする。その自立は、滅亡への道となる。その恐ろしさにエバは気づいていない。▲私たちは神に従う決断に生きる事を願う。―――この夫婦には自由意志が与えられた。その自由さを尊く用いて、神の愛に真摯に応答する事が、私たちが選ぶべき救いと救いの道である。神が私たちのために与えられる祝福は私たちの予想を超えている。その豊かな導きを確信して、主に従っていこう。



2011年7月31日

「わたしが正しい」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。…カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。・・・わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。 創世記4章1-16節

 人類最初の殺人事件は、カインとアベルという兄弟の内に起こった。きっかけは神への献げものが評価されなかった嫉妬からだった。カインは「土の実り」を神に献げ、アベルは「肥えた初子」をもってきたと聖書は記す。ヘブライ人への手紙11章を読むとアベルは信仰をもって献げたとある。アベルの献げものには、この「肥えた初子」という最上をもってすれば、神は喜んでくれるはずだという信仰があった。受け手の心を思っての献げものだった。しかし、カインのものはそこまで上等ではなかったのかもしれない。自分は汗はかいた。猛威を振るう自然を征し、懸命に種を撒き、雑草を抜き、耕した。自分が獲得した作物。これで神は喜ぶべきだという思いが働いたのだろうか。いつの間にか神と立場が逆転した。神がアベルを省みられたことに腹を立ててカインは弟を殺してしまう。そんなカインに神は問いかけられた。なぜ怒るのか、なぜ顔を伏せるのか、弟はどこか、なんということをしたのか。人同士は意外とどうでもいい質問をする。しかし、大事なことは神の質問に人がどう答えることができるかであると思う。神からの質問に、カインは答えられなかったが、だから、初めて「罪は重すぎて」との認識が生まれた。神はカインに恵みを与え、しるしをつけられた。それがどんなしるしだったかは書かれていない。カインにとっては何よりも大切なものだった。わたしたちに与えられているしるし、それはイエスキリストというしるしであり、恵みの源である。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」コロサイ2章3節


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