巻頭言
2010年7月


2010年7月4日

『「…はならない」こと・・・先週の説教要旨』

牧師 犬塚 契

「あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。血を食用に供する者はすべて自分が属する民から断たれる。」 レビ記7章26〜27節

幼い子供が道路に太陽の日を浴びてキラキラと光る小さな塊を見つけた。綺麗に包んで机にしまったその宝物は、ガラスの破片だったという。大人にはゴミに見えても子供にとっては、大切なものだった。神がイスラエルの民を選んだ理由が申命記の7章にある。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに…」(申命記7章)神の愛は満遍なく惜しみなくではあるけれども、偏りと方向性があるものだと思う。そして、ふと偏りをもって愛されているのは誰かと思う。それぞれの歩みも家族の歩みも歴史が戦いと緊張の連続であったとしても、思い出だされるのは哀れみ深い神の愛と繰り返されるキリストの十字架の恵みである。レビ記の7章には、「…ならない」と12回も繰り返されている。なんだか窮屈なような、狭量なような…そんな7章。神は何が不満だったのだろうと何度も繰り返し読んだ。▲生活を見渡すともらいものが多いことに気づく。コップもテレビも衣服も、ネクタイも…。一つ一つに思い出があり、贈り手の温かな心がある。交わりの名残がある。そして、このいのちもまた神様からももらいもの。レビ記7章に列記された「・・・・・はならない」とは何か。それは、いのちを自分のものとしてはならないということではないのかと。いのちとは神の前に置かれたものであり、神との交わりの中で確認せられるものであると信じていきたい。「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」使徒言行録17章



2010年7月11日

「なぜ・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「モーセは共同体全員に向かって、これは主の命じられたことであると言った。」 レビ記8章

 レビ記に記されている詳細な礼拝規定や作業の方法。ひとつひとつに意味があるのだと思う。しかし、レビ記には、なぜそのようにしなければならないのかは書かれていない。「なぜ」をほとんどいつも問う存在である私たちにしてみれば、頭に「?」がいっぱいとなる。当時の人々の自明が、現在を生きる私たちの自明でないこともあるだろうし、長い歴史の経過もユダヤ人と日本人の文化・背景の違いもある。それでも、8章に書かれてある一文が心に残る。「これは主の命じられたことである」。恐らくは彼らも分かりはしなかったのではないか。していることの意味を知らずに、それでも手を抜くことをせず、主が命じられたという理由をもって日々を繰り返したのではないかと思う。▲『神は「なぜ」には答えられない』と書かれた文章を目にした。それはすぐに「どのようにして」に結びつき、いたずらな原因探しやごまかしの解決へと向う。『「あぁ信仰が足りなかった、祈りが少ないから、努力が足りないから、よい夫、よい妻でなかったからだ」そして、それさえ改めれば、すぐに神は望みをかなえてくれるはずだという理解にすり変わるのだ』という。しかし、そのすぐに「なぜ」と問いたくなるような「行きたくないところ」こそ、今まで知らなかった神を見出す場所であるという。▲じっと課題の前にたたずんで神に聴くことの大切さ。キョロキョロせずに、自分で絆創膏を貼らずに、主の言葉を待つことを教えられる。三浦綾子さんはギブスベットの上で寝返りもうてない4年間を過ごしたという。焦りも苛立ちもあっただろうか。それでもこう書いておられた。「一生、苦労つづきのままに終わったからといって、どうしてそこに祝福がなかったといえるだろう。また、する事、成す事、すべてうまくいき、一度も病気をせず、怪我もせず、思うがままの一生を終えたからといって、それだけで神に祝福された一生といえるだろうか?」



2010年7月18日

「何を残すの・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

アロンはモーセに答えた。「確かにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか。」モーセはこれを聞いて納得した。     レビ記8章

 モーセによる祭司の任職式が8章に書かれている。いよいよアロンは祭司になった。そして9章には「アロンにより献げ物の初執行」の記事が続く。アロンは何度も祭儀を確認し、頭の中で丁寧にシュミレーションしたことだと思う。神が決められた方法に従う祭司に間違いはあってはならない、畏れと緊張によって、十分な睡眠も得られなかったかも知れない。いよいよ祭司によって導かれる礼拝の民としても新しい歩みが始まった!…が、台無しである。何か起きたか?1〜2節。「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。」▲「主の命じられたものではない」炭火を使ったという。罪深い人が聖い神に近づくのに、勝手にずかずかとは進んでいけなかった。だからこそ、近づく方法は神が定められたのだ。しかし、父の緊張をよそに、息子たちは自己流の礼拝、自家製の礼拝を捧げた。長男、次男を失った、祭司一家は喪に服すことも赦されず、悲しんでもならなかった。それは神への不満につながる可能性があった。アロンそんな出来事の前で、ただ黙した。▲10章の後半、再びアロン一家は、「主の命じられない」ことを行った。上記の聖書箇所。食べるべき生贄、招かれる食卓につかなかったのだ。アロンの胸に去来した様々を想像する。金の子牛事件を起こしたこと、神を畏れる子に育てられなかったこと、祭司であることの喜びと厳しさ…。ただ罪の深刻さを思い、神の前に出させられたのではないか。だからこそ、今日は食べられないと思ったのではないか。いや、もうどうしたらよいのかわからなかったのではないかとも思う。そんな悶えを理解し、救いを与えることのできるのは、十字架上で罪ゆえに苦しみを受けられた主イエスキリストだけである。主イエスキリストも、それは私の罪だと言われるのだと思う。


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