巻頭言
2009年7月


2009年7月5日

「信仰による義」

牧師 犬塚 修

しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その 信仰が義と認められます。 ローマ4:5

これはすばらしい慰めと喜びを、私達にもたらすみ言です。私達は無意 識的に、義と認められたい切なる願いで、行い中心の生き方を実践して “良い子”になろうとします。以前のパウロも、熱心に良い行いで救わ れようとした人でした。彼はわき目も振らず一心不乱に働いたのです。 しかし、彼の心に生じたものは空虚感だけでした。彼の失敗は自分の存 在理由を正しい行いに置いていた事です。すなわち、いかに多く働いた か、頑張ったか、苦労したかが、自分を測るはかりであり、価値基準だ ったのです。良い行いができる事はすばらしい恵みです。しかし、行い だけを重視する生き方は、自負心、うぬぼれ、行わない人への冷たい裁 きの心が生まれてしまう危険性があります。それがストレスや重荷とな って自分に跳ね返ってきます。 「働きがなくとも」とは、働きを否定しているのではありません。ただ 、人間としての価値は、行いの良し悪しよりも、キリスト信仰にあるこ との明示なのです。「彼らが、“神の業を行うためには、何をしたらよ いでしょうか”と言うと、イエスは答えて言われた。“神がお遣わしに なった者を信じること、それが神の業である”」(ヨハネ6:28〜29)と あります。信仰はいかなる良い行いよりも、何百倍の威力がある業で、 まさに神の業のようにすばらしい力に満ちています。疲労困憊するほど 頑張っても、それが空しくなる場合もあります。むしろ、私達は何がで きなくても、主を心から信頼する事で、すばらしい実を結ぶことができ るのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認 することです」(ヘブライ11:1) 35:4)



2009年7月12日

「神の決められた方法で」

牧師 犬塚 契

最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モー セはこうして、その仕事を終えた。雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が 幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がそ の上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を 離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつも そうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発 しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、 夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。  出エジプト記 40章33-38

主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々 に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物 を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽 くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入 れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物と する牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして 受け入れられる。 レビ記1章1-4節  出エジプト記の最後の章は、幕屋の建設が終わるシーンである。完成 の時、主の栄光が幕屋を覆い、誰も入ることができなかった。ページを めくるとレビ記に入る。幕屋を中心に繰り広げられるべき礼拝の詳細が 神から伝えられる。自分勝手、思い思いでなく、神の決められた方法で イスラエルの民は礼拝をささげることを求められた。現在、賛美や祈り 、聖書や宣教、献金などで私たちは礼拝をささげるが、当時の礼拝の中 心は、生贄だった。▲流れる血、払われる労力、問われた生活。レビ記 を見るに聖なる神との圧倒的距離感を思わせられる。この聖なる神は今 もまったく薄れることなく、変わりない。今日まで続く礼拝。与えられ たイエスキリストの十字架を思う。歴史の中で次第に明らかにされてい く神の示された方法に驚きと感謝を覚える。



2009年7月19日

「二つのゆとり」

牧師 犬塚 修

動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ば れているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた がたは知っているはずです。Tコリント15:58        

最近“ゆとり教育”の弊害が主張され始めています。これが子どもたち のやる気を失わせているという理由からです。私は信仰の面でも“善悪 のゆとり”がある気がします。“良いゆとり”は、寛大さ、おおらかさ 、焦りのなさ、ゆったりとした生き方、主に委ねること、また神から来 る平安を指します。こんなすばらしいゆとりなら是非とも持ちたいもの です。しかしもう一つの“ゆとり”は傲慢さ、滅びと結びつく危険性が あります。これは必死で主に願い求めないという“自分を欺く偽者のゆ とり”です。イサクの息子のうち、兄エサウはいろいろな面で、ゆとり があると感じ、神の恵みをそれほど必要としなかったように見えます。 逆に弟のヤコブはおのれの弱さや欠点を良く知っていて、自分の力に頼 れず、死に物狂いで神の祝福を求めました。そのことによって、ヤコブ は偉大な主の業を知る事になりました。私達は神のあふれる恵みを享受 していても、感謝を忘れがちです。そして、恵みをまるで当たり前のこ とであるかのようにも錯覚します。そのうちに嫌なことが起こると、愚 痴と不平と怒りを沸いてきます。神は本当に愛なのか?と疑うのです。 そして高慢という芽が雑草のように育つのです。 神は愛であり、私達に真実であり、良いことしかなさいません。しかし “もう一つのゆとり”が忍び込むと、この愛と導きが見えなくなり、道 を踏みはずすのです。その結果として痛い目にあっても、余り悔い改め ず、神の責任に転嫁します。これがご利益的信仰の正体です。乗ってい る自転車は動いていないと、すぐに倒れるように、信仰も絶えず、動き 、働いていないと、倒れてしまいます。必死で祈り、肉的なゆとりを持 てないほどに、神に叫び求めたいものです。神に頼るほかにどこにも救 いの道はないと確信することです。



2009年7月26日

「〜ならできる」

牧師 犬塚 修

いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 フィリピ3:16       

「〜しかできない」という考え方は否定的、消極的ですが、「〜ならで きる」という発想法は、豊かな将来をもたらすと思います。パウロは「 わたしたちは到達したところに基づいて進むべき」と書きました。つま り「まだ自分が到達していない所から出発してはならない」と警告した のです。その道は本来の自分ではなく、無理を重ねる偽りの歩みとなる からです。義務感だけでは主の恵みが分からなくなり、苦しんで生きる ようになるでしょう。「私は弱い者ですが、〜ならば私はできます。」と 大胆に言い、行動する事です。「私は祈りしかできない」と言うのでは なく「私は不完全な祈りでも、私なりの祈りならできます」という考え 方は私達の心を明るくします。そして「完全でなければならない」とい う律法主義的な考え方を打ち砕きます。不十分な自分を主は愛し、偉大 な奇跡を起こされると確信しましょう。「〜なら私にもできる」の考え 方をあらゆる事に用いると、不思議ですが歩み方が楽になる気がしてな りません。律法主義、完全主義、気負いや見栄は姿を消していき、自分 らしく自然体のままで生きられます。私達の行いの評価は主がなさるの です。自分なりに全力を尽くならば、それで良いのです。主は私達が主 のために全力で仕える姿勢を喜んで下さいます。


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