巻頭言
2007年7月


2007年7月1日

「いのちを守る戦い」

牧師 犬塚 契

平和をこそ、わたしは語るのに…    詩篇 120:7

2年前の夏に初めて沖縄の辺野古海岸に行った。普天間基地の代替 地として新たな基地が造られるのを止める戦いが何年も続いていた 。ボートで海に出たが、一面に青い海が広がっていた。風でコンタ クトレンズを失ったのもしばらく気がつかないほど、海は変わりな く青だった。まだ知事も市長も首相も変わっておらず、一進一退だ った。 その後、知事選の敗北、選挙後の市長の心変わり、首相の強 行が辺野古を殺人基地に近づけ、昨年には牧師が逮捕された。登録 しているメーリングリストから近況を知った。【一昨日は1船団、 昨日は2船団、今日は3船団の作業船が作業を行おうとしました。 今のところ完全に止めていますが、施設庁にはこちらを疲労させる と同時に、力量等を探っているような気配が感じられます。…どう か、一人でも、半日でも辺野古の活動に参加をお願いいたします。 周りの友人知人に声を掛け、辺野古のことを知らせてください。
辺野古で起きていることは、今すぐは目に見えなくても、 将来さらに長きにわたって、沖縄が、日本が戦争という大量殺戮に 荷担し、発信地となることに繋がっています。
これを止めることができるのは 、一人の市民であるわたし達の決断と行動です。「人がいれば止め られる!」カヌー隊の皆が日ごと噛み締めている言葉です。…今日 、みなさんからのカンパにより購入した2隻目のゴムボート「サー ニー・アル・サラーム」が辺野古に来ました。「平和をつくり出す 者たち」という名にふさわしく飛ぶように海面を駆け回り、作業を 止めることに大きく貢献してくれました。感謝です。】▲沖縄の基 地からベトナムに人が人を殺しに行くのが苦痛だったし、イラクの 人々が悲鳴をあげて逃げていることを思うと辛い。爆弾を満載した 爆撃機が、空になって沖縄に帰ってくるのがやるせない。そんな思 いを沖縄で教えていただいた。今は行けないので、新しいボートの カンパに協力することにした。「戦争に勝者はいないが、平和を守 る戦いに敗者はいない。基地を造れなかった人々も命を守ることに は勝者です。」



2007年7月15日

作り話か歴史の事実か

牧師 犬塚 契

牧師になる前よりも、なってからのほうが迷うことがある…とあ る牧師が著作に書いていた。そして、行き着くところはこの一事に 尽きるという。「イエスキリストの十字架と復活は作り話か、それ とも歴史の事実か」「作り話か歴史の事実か」…「そうだ、歴史の 事実だ」と確認するときに、フツフツと勇気が湧き出てくるのだと いう。▲ローマの政治家、歴史家であったコルネリウス・タキトゥ ス(AD55年頃-AD120年頃)は、キリスト教に批判的であったが、彼 の書いた「年代記」(岩波文庫)には、ポンテオ・ピラトによって 処刑されたキリストが登場する。通信教育の歴史の授業を聞いた時 、担当者は「イエスキリスト」は架空の人物かもしれないと話して いたのを聞いてびっくりしたことがある。ならば、世界中にある教 会の存在は、有史以来の最大の謎となる。架空の人物のために命を かけた弟子たちはみんなどうかしてたことになる。しかも、よりに よって犯罪人として処刑された人を信じるなんて、よほど趣味が悪 いことになる。クリスマスは無くなるし、日付は変わる。覚えた歴 史の年号はすべて覚えなおさなければならない。「ナント立派な平 城京」も「イイクニ作ろう鎌倉幕府」ももう違う。しかし、不自然 だ。イエスキリストが生き、捕えられ処刑され、弟子たちは逃げ、 何かあって、弟子たちは勇気づけられて、再び伝道したと考えるほ うが自然だ。何かあって…復活である。▲神の関与されている歴史 の中を生きさせていただいている事実が励ましと力になる。前出の 牧師のいう事がなんだか分かる気がした。



2007年7月29日

「180°と日々の関係」

牧師 犬塚 契

このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、 あらゆる教会についての心配事があります。   Uコリント11:28
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたした ちの「内なる人」は日々新たにされていきます。  Uコリント4:16
…主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対す る誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。Tコリント15:31

「日々」という言葉が気になって、便利な聖書のソフト使ってパソ コンで調べる。もっとたくさんあるのだけれど、パウロがコリント の教会に宛てた手紙の中からいくつかを上記に列記。▲幼い時から、 教会や集会で「180°」変わった喜びの証を聞いてきて、そんな「仙 人」のようなクリスチャンになれるのだろうかと、期待と不安をい だいたことを覚えている。下から上を見上げるようになっても、せ いぜい45°。それが180°とはどういうわけか…。▲夕方までほぼ 忘れていた誕生日を迎えて、32歳。改めてこの角度を考えた。「自 分は180°も変わったか」。角度でいうとやっぱりよくわからないの だ。「迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事」、加えて 自らのいたらなさへの後悔と葛藤がある。だからこそ、拙い歩みの 中で、日々、イエスの歩みの想起が必要なのだと感じている。日々 の歩みの傍らに、イエスの足跡があることを思い、また、時に足音 を聞きながら、やっぱり日々を生かされているように思う。▲日々 、ほぼ掃除している。汚い部屋に当たった。散らかし放題で、掃除 機も雑巾も持っていなかったと思われる。退去後に届いた郵便物か ら女性と知った。「最近の…。恥じらい…」ブツブツ言いながら仕 事を始めた。やがて、散在したゴミからなんだか生活が見えるよう に思った。冷蔵庫の中から病院名が書いてある薬がたくさん出てき た。なんだか足を洗わせていただいているような気がした。祝福を 祈った。▲心を掃除してから、イエスをお迎えするのは無理だ。ま さに、日々、日々、イエスを頼りに歩みを進めさせていただきたい と思う。





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