巻頭言
2006年7月


2006年7月2日

蛇ビンチ・コード

牧師 犬塚 契

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 フィリピ2章6-7節 

見ていない、読んでいないから、本当は何も書いてはいけいない気がするが、少し気になったので…、「ダビンチコード」。見た人の話しを聞くとなんだか、イエス様にご子息がいらっしゃったらしい。「それは、おめでたい!」と世の中上げて歓迎ではなく、神の子の子ということでスキャンダルだ!と言いたいらしい。映画祭では冷笑、失笑、アクビで、拍手が起きなかったと酷評されていたが、日本中はモナリザの微笑で溢れた。歴史を無視して、都合でミステリーに仕上げた作品への批判は多い。それでも、私は逆に人々の神への期待を感じた。▲「神のようになろう」としたことが、創世記の最初の罪だった。人が神となろうとする誘惑に、最初の人から負けた。そして、現代になって、「神を人にしようとした」ように思う。「ほら、何が神の子だ!違うだろ、ただの人だ」。懸命に引き下げようとする働きをみる。神よ、さっさとこっちへ降りて来い、と。▲すでに、降りてこられたのだ。「神の身分であることを固執しようと思わず」。理不尽や非条理、喪失感や徒労、罪の誘惑のやっかいな一切や花の匂い、夕日の美しさ、輝く星、小さな信仰の結実…イエスは経験した。だから、私も先にイエスの歩まれたこの世を賛美と祈りと涙をもって、後を追う気になるのだ。復活の希望を先において。




2006年7月9日

「礼拝と生活」月間の中で

牧師 犬塚 修

「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」ヨシュア記1:7 

民のリ−ダ−であったモ−セの後継者となったヨシュアはどんなに将来を危惧したことでしょうか。「私が背負った使命と責任は重過ぎる…」と内心、嘆いたかもしれません。迫り来る不安と心配、逃げ出したいと思う臆する気持ちに襲われたであろう不安定な心の状態にあったヨシュアに、主は「雄々しくあれ!」と力強く励まし、語られました。たとえいかなる最悪の境遇にあっても、私は決してあなたを見捨てず、必ず守ると言われます。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)とあるではありませんか。従って、何事が起こっても恐れず、ひたすら主に聴き従うことです。「主はこの私を強め、支えて下さる」という強い確信によって生きる人は、多くの祝福(成功)を獲得します。目標に向かってわき目もふらず、一心不乱に突き進みましょう。大きな競技大会を数ヶ月あとに迎えるスポ−ツ選手は、これまでよりも、より厳しい練習をすると思います。また「右にも左にもそれない」集中した日々を過ごすことでしょう。勝負に勝つか負けるかは、他者との戦いによるよりも、臆して弱気になりやすい自分との戦いです。信仰によって思い煩い、不安に負けそうになる自分を強くすることです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33〜34)




2006年7月16日

「礼拝に出席する」

牧師 犬塚 契

【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 詩篇103編1-2節

     小羊会例会のために  世の光 7月号より● いつも日曜日は、どこに行く?先週の日曜日は、みんなはどこに行きましたか?思い出せたかな。じゃぁ、今日は何をしましたか? そう、そんな質問、簡単です。「礼拝」に行ったし、今日も「礼拝」に来たんだね。「教会!」って答えた人がいたかもしれないね。間違いじゃない気がする。でも、なんで「5つの約束」は、「教会に出席する」じゃなくて、「礼拝に出席する」なんだろう。どう違うんだろう。じゃぁ、「教会」に出席しても、「礼拝」に出席していないなんてことあるのかなぁ。● 「礼拝を待っている神様」礼拝って何をするところでしょうか?少し考えてみよう。…一週間に一度、心の洗濯をするところ?週の初めの日、心のエネルギーを蓄えるところ?学校の違う友達に会うところ?みんなが楽しくリラックスするところ?帰るとき笑顔になれるところ?乾いていた心が満足するところ?立派なクリスチャンになるところ?行かないと怒られるところ?…なんかもったいない気がするけど、最初の答えとしては全部、いいえです。本当は、礼拝は、私たちひとりひとりの心を神様にささげるところです。私たちが「もらう」ところの前に、神様に「ささげる」ところです。今日は、「もらえた」、先週は、「もらえなかった」、来週は「どうだろう」。ううん、そうじゃなくて、今日も、先週も、来週も、ちいさな者だけど、ささげるところなんだ。教会では、いろんな人がみんなのことを祈って待っていると思います。一緒に礼拝したいと待っています。そして、会えるととても嬉しいです。(久しぶりだとなおさらですが、やっぱり久しぶりじゃないほうがいい)。神様は、それ以上に私たちを待っています。私たちを、招いて、待っていて、私たちが心をささげて、賛美したり、聖書を開いたりするのを待っています。● 観客はだれ? たとえば、礼拝をサーカス場に例えてみると、どうなるかなぁ。その中には、3種類の人がいるみたいだよ。@サーカス開催のために準備をする人たち、A演技をする人たち、そして、Bお客さん。礼拝に当てはめてみると・・・?@は、牧師さんや奏楽者、司会者で、Aは礼拝に来た人、一人一人で、Bは神様です。教会の長い椅子やパイプ椅子、座布団の上に座って礼拝をささげているとなんだかお客さんになった気になるね。でも、本当は神様が、私たちに心に起こることを見ていてくださるんだ。 礼拝をささげていくという作業は、神様に造られ、生かされていると信じる私たちにとっては、いのちの源です。生かされている限り、よい礼拝者のひとりとして歩みを続けていきたいね。                   




2006年7月30日

「神の無力の力」

牧師 犬塚 契

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。  ローマ書5章6−8節

      「人の心はお金で買える」と公言した社長は、逮捕されて、今は何をされているのか知らない。▲力でできないことがあることを神は知っておられた。神がどれほどその全能の力を人間に誇示しても、神を愛させることはできない。出エジプトの民は神の力をまじかに見ながら、荒野の40年を過ごした。その力に驚き、感謝した。しかし、彼の信仰は育たなかったし、神を愛することを彼らは学ばなかった。ならば、愛を引き出す方法はただ一つだけだった。人間と同じ姿になり、「唯一のいけにえ」として、私達の罪のために死ぬことによってのみだった。力を顕示することではなく、愛を示すことによって私達に迫られた。 2000年前の十字架には、神のどこにも絶対的な力が見えない。磔にされたイエスが無力に釘づけにされ、流れる血も汗もよだれもそのままに、息もたえだえになっている。そこにいかに神が私達を愛しておられるかが示されている。



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