巻頭言
2005年7月


2005年7月3日

「奉仕と聖別」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面 で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者 だからである」と書いてあるからです。            第一ペトロ1:15〜16

「聖なる者」とは道徳的に完全な者、何の罪も犯さない立派な模範的クリスチ ャンになれという意味ではありません。それは不可能と言えます。本来の意味 は「分離された者」です。つまり、この世の悪の影響力から分離されて神の大 切な宝物、また所有物となることです。それは神の家族の一員となるために養 子に入ることと似ています。以前は、罪にまみれていた私たちが神の子と認め られた瞬間から、生き方は180度変わり、もはやニヒルになったりすること なく、明るく喜んで主に従いたいと願うようになります。罪に支配された世界 は人間を神の座につかせようとします。罪人が義人のようにふるまい、また神 のような絶対者として君臨したがり、弱い立場の者を支配し、奴隷化し、悲劇 に突き落とそうとします。これが無意識のうちに起こるから恐いのです。さら に自分いじめが横行し、自暴自棄に堕していきます。このようなことを許して はなりません。私たちはイエス様の尊い血であがなわれた尊厳なる神の子では ありませんか。無限の恩寵を、不信仰によって泥にまみれさせてはなりません 。むしろ、イエス様中心の生活を組み立て、いかにして主を喜ばそうか、喜ん でいただけるかについて心を砕きたいものです。その生き方が、私たちに生き がいと幸福を与えていくのです。



2005年7月10日

「あきらめない神ゆえに、丸ごと愛する神ゆえに」

牧師 犬塚 契

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる 者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書3章16節

「聖書全体が失われても、この言葉さえ残れば人々は救われ続ける」とルター は語った。ヨハネ3章16節は、聖書の中で最もよく暗唱される言葉である。 神が、その独り子をお与えになったほどに愛されたこの世とは、ギリシャ語で はコスモス。神に背いている人間が形づくる世界をもあらわしている。良いこ と、正しいこと、美しいこと・・・の世界だけを神は愛したのではなく、すべて を含んだ「この世」を丸抱えして神は愛された。痛みの多い、崩壊し、破綻し た「この世」を、なお神は、愛し続け、愛することをあきらめておられない。 ミュージシャン鬼塚ちひろさんのアルバムは100万枚売れたという。「月光」 という歌の中にこんな歌詞がある。「♪I am God's child.(私は神の子供) この腐敗した世界に堕とされたHow do I live on such a field? (こんなと ころでどう生きろというの?)こんなもののために生まれたんじゃない」。 どこらへんがヒットを生んだだろう。人はあきらめる、ムダと思う、報い少な しと嘆く、そして、自分のものさしで神をはかり、神もそうだろうと思う。し かし、ヨハネの3章16節を思い起こす時、変わらぬ情熱をもって、今もこの世 を、私達を愛することをあきらめない神の姿を見るのである。



2005年7月17日

主の鍛錬

牧師 犬塚 修

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また 、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています 。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力 を落としてはいけない。 ヘブライ12:2-3

7月は「聖別」について共に考える月にあたりますが、聖別とは、罪からの離 脱する事を意味します。罪は道徳的な意味よりも、主との関係において、この 主から離れ去ることを指しています。ルカ15章に登場する息子たちのうち、弟 の方は放蕩三昧に耽るという罪人となりましたが、彼は悔い改めて、その罪が すべて赦されました。一方、兄息子は優等生で、どこにも罪がないように思い かちですが、弟以上に父親から心が離れていました。彼も罪人なのです。しか し、大切なことは、父親は二人とも同じく愛しぬかれた事です。私たちはこの 主の愛を信じて生きる時、罪に打ち勝つ事ができます。心の健康の秘訣は主に 近づく事にあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださ います。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい 。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい 」(ヤコブ4:8~9) 主にあっての悲しみは、必ず喜びに変えられます。主は私 たちの最大の味方ですから恐れる事は何もありません。



2005年7月24日

命である言葉

牧師 犬塚 契

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た 。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネによる福音書1:14)

「ことば」が足りない切に思う。週報原稿を書くときも、説教の準備をすると きも、励ましの言葉をかけるときも、方向性を問われた時も、「ことば」が足 りないことを痛感する。自分の用いる語彙が少ないことは知っているがそのこ とではない。本当に豊かで、どこまでも温かく、どこもまでもやさしい福音を 伝える「ことば」が足りない。いのちである「ことば」が足りない。説教壇に 立ちながらも、本当はもっと、もっと深い、驚きの「ことば」(福音)をもっ と分かりやすい言葉で分かち合えたらどんなにすごいことかといつも思う。語 りたいことはどこまでも変わらない神の慈しみだとしても、人間としてなんと なく腑に落ちやすい律法主義や倫理を説いている気になることもある。けれど も、そこから繋がって、もっと「福音に触れたい、生かされたい、ことばを知 りたい」と願いを抱くようになっている。今まで辛うじて構築されてきた価値 基準が逆転したり、傷が輝きの出張所に変わったり、神の法外な赦しと憐れみ が示されたり、告白と悔い改めに導かれたり…それらの瞬間の断片を集めて、 私としてはクリスチャンであることができるのだと思う。 ヨハネは福音書の中で、イエスキリストこそが「ことば」であることを書いた 。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1:1 4)。私たちはイエスキリストに触れることによってのみ、「ことば」は養わ れ、いのちは豊かになっていくのだと確信している。神が実際、地上で生きた シーンの数々、すなわちイエスのミニストリー、HISTORY(HIS−STORY=彼の 歴史)をおう(追う、負う)ことによって人は神がどう考えておられるかを知 ることができ、さらなるいのちのことばに生かされていくのだと思う。教会で 分かちあいたいのその「ことば」である。いのちの源泉はキリストのうちにあ ることを心から教えられる者でありたい。



2005年8月31日

一つとされる

牧師 犬塚 修

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべ ての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてくださ い。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるよ うになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わた したちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 ヨハネ17:21〜22

私たちの心の喜びは神を礼拝し、信仰の友と心が一つになる時に溢れてきます 。お互いの関心や行動が別の方向に向いたり、思いが通じ合わなかったならば 、信仰の歩みは寂しいものとなるでしょう。心の一致は、お互いに仲が良いと か、気が合うというようなものではなくて、御父と御子と私たちの関係に基因 します。ここに「御父は御子のうちにおられ…この御子は私たちの内におられ る」とあります。御父と御子と私たちが一つの直線で結ばれています。それは すばらしい愛の関係です。その至高の表現がキリスト者は聖なる神殿とい う言葉です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内 に住んでいることを知らないのですか」(第一コリント3:16) まさに驚くべき 恵みの宣言です。これ以上の豊かな自己像は、他には考えられないと思います 。私たちの一致は、この三位一体の神との交わりから生まれます。一致に生き る者は今、教会はどこに向かっているか、と自分に問いかけそこに全精力を向 けていきます。不一致を克服し、心を一つとして共に生きていきたいものです 。


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