巻頭言
2004年7月


2004年7月4日

「教育と変革」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・ イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 ローマの信徒への手紙3:23〜24

「信仰は、子供が、自分は父親の家に居るのだとか母親の膝の上に居るのだと かいうことを知るような単純な発見である。…また人間の発見そのものが出来 事となるのは、人間がイエスキリストによって一切をあるがままに見、また受 け取るようにと目覚めさせられることによってだけだからである」(カ−ルバ ルト教会教義学「和解論」887p)カ−ルバルトはヒトラ−やナチスに激しく 抗議した人物です。彼は日々、迫って来る死の恐怖に屈する事なく、イエスキ リストの御名を呼びました。彼は主の贖いの業を確信していました。そして人 が義とされるのは、自分の行いによる事なく、神の恵みによると信じて、恐る べき敵と平安をもって戦いました。また自分たちの熱情、高揚、悲壮な決意と 実践、ガンバリが世界に変革をもたらすのではなく、イエスキリストの熱情、 その愛、無尽蔵の赦しが暴虐に苦しむ人々に真の希望をもたらすと信じたので す。私たちが力強く生きる秘訣は「イエスキリストによって一切をあるがまま に見る」事にあります。信仰の目で見えてくる世界は、何が起ころうとも、神 の絶対的な支配が行われている神秘の世界です。「見よ、イスラエルを見守る 方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを 覆う陰、あなたの右にいます方。…主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見 守り、あなたの魂を見守ってくださるように」(詩篇121:4〜7)悪しき状況であ っても、現実を「神が働かれる救いの場」として受け入れる時、ふしぎにも神 の恵みの出来事が開始するのです。「恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を 打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」(イザヤ書 35:4)



2004年7月11日

休息することの大切さ

牧師 犬塚 修

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、 暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない。         イザヤ書42:2〜4

私たちの心や体が疲れ、知らず知らずのうちに悲鳴を上げている事はないでし ょうか。がんばらなくては…という思いや義務感ばかりが先行して、本当の自 分を置き去りにしている事は…。金属疲労という言葉がありますが、長年の積 み重ねの末、目に見えない疲労が心身に蓄積しているという事があります。従 って、私たちは自分自身のリハビリを怠らず、休むべき時は思い切って休息を とる事が重要です。元来、「働く事イコ−ル美徳、善」という精神風土の中で 生きてきた私たちは、休む事にある種の罪責感を持つ事があります。「私は怠け ているのではないか…」と自分を責めてしまうのです。しかし、それは間違った 考え方です。神は私たちに裸のまま、ノビノビと生きる喜びを与えられました 。エデンの園とは、「歓喜の園、楽しみの庭」の意味でした。すなわち、人間 は神と共に対話し、自由に、楽しみを満喫して生きるために創造された稀有の 存在なのです。もし、今の私たちのどこかが傷ついた葦のような状態であるな らば、それを癒すためにゆっくりとした時間が必要です。その時間は主と交わ る事ができる恵みの時なのです。もし、私たちがほの暗い灯心であるならば、 その小さな炎を消し去る事がないようにと、十分に配慮されねばなりません。 それは再び、燃え上がるためです。その場合、焦りは禁物です。これからの人 生は長いのですから。時間をかけてゆっくりとこねたソバやうどんはふしぎに 美味しいように、私たちも主のみ前で、静まる時間は、すばらしい祝福の時な のです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休 ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたし に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」 マタイ11:28〜29



2004年7月18日

祈りによる変革

牧師 犬塚 修

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が 地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる 。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中に いるのである。                          マタイ18:19〜20        

切なる祈りは、人生において偉大な力を発揮する原動力です。祈りが天に向か って捧げられる時、天の窓は開かれます。そこから霊の炎は燃え広がり、罪や 汚いものを焼き尽くし、清めをもたらします。祈りは巨大なダムのようです。 満々と貯えられた水が、ある日、突然、開門と同時に川に流れ下ります。長年 かかって貯えられた大量の水が勢いよく落下の時を待つように、長年、積み重 ねられた祈りには無尽蔵の力が隠されています。私たちはこの祈りをもって、 立ち上がる事ができるのです。主のみ前に静まり、祈る事、また業にいそしむ 事は、車の両輪のごとしです。一方が欠けても、救いの業は起こりません。祈 りつつ、行動する事です。とくに祈りを止めると、私たちは髪の毛を剃られた サムソンのように弱々しい無力な存在になります。祈りは心を一つにして求め 続ける事です。また、祈りのために、兄弟姉妹として共に集ましょう。祈りの 集いに参加する事で、人生にすばらしい変革が与えられます。私たちが、まず 第一に求めるべきものは神の国です。ひたすら集まった「彼らはみな、婦人た ち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、 ひたすら祈をしていた。そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集 まっていた」(使徒言行録1:14〜15)この祈りの集会から、聖霊降臨(ペンテコス テ)という大きな出来事が起こりました。小さな蜂の一匹一匹は無力ですが、集 まるとものすごい熱量を生むように、教会も心を一つにして集まって祈りあう 事で巨大なエネルギ−を生み、あらゆる不可能の扉を打ち破って進みます。



2004年7月25日

赦しあいによる心の変革

牧師 犬塚 修

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたが たを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 コロサイ3:13        

7/19(月)14:00から犬塚契牧師と繁田利奈姉の結婚式が当教会において執り行 われました。総数240名を超える方々がおいで下さり、感謝にあふれる祝宴と なりました。このために、数多くの愛する兄姉がすばらしいご奉仕を捧げて下 さったことに深く感謝申し上げます。さて、主に祝福された生活とは完全主義 を基とする生き方ではなく、互いの弱さや不完全さを認めあい、受容するとこ ろから生まれてくるものと信じます。無論、完全を目指すことは大切ですが、 人間はそれほど理想的に生きる事ができません。必ず、ほころびが出てきます 。その時、いかに自分の弱さと戦い、勝利するかが重要なのです。これはただ 、結婚生活だけではなく、すべての人間関係においても、この事は真理である と思います。自分の高い理想をかかげ、それに向かって邁進する時、自分の考 え方と合わない現実や、またどうしようもない怠惰さ、いい加減沙に腹を立て るならば、サタンはその不満の心に攻め寄せてきます。人間の理想は美しいも のです。しかし、それがサタンに用いられるとは、何という巧みさでしょうか 。理想論の欠陥は、人間の弱さに目を留めない点です。どうしようもない人間 ---その私たちを愛する神の愛は、どんな見返りも求めない無償の愛です。そ の愛に生かされるという事は、私たちに別の生き方を示します。それは、互い に忍びあい、ある時は、忍耐しながら赦し続けていく道です。そのような生き 方は、人間の意志力によりません。私たちの意志は決して強くはないからです 。ただ聖霊によってのみ可能です。相手を自分の理想的な人間として理解する と、その期待は、いつしか失望感と裏切られた思いに変わり、不平や怒りがこ み上げてくる場合があります。聖霊によってすべてを感謝し、満足する人にな る事です。


TOP