巻頭言
2003年7月


2003年7月6日

「伝道と生活」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから 逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。       ヤコブ4:7〜8

憎しみのある所に  愛を
    争いのある所に 和解を
分裂のある所に  一致を
    疑いのある所に 真実を
絶望のある所に  希望を
    悲しみのある所に 喜びを
もたらすことができるように、助け導いてください
これは、約800年前に生きたアシジの聖フランチェスコによる「平和の祈り」ですが、 今もなお、私たちの魂を強く揺さぶる力があります。現代世界も、当時のように不 安と恐れが満ちています。辛苦の出来事が人生に暗い影を落としています。そして また悪魔も私たちを不幸に陥れようとしています。憎悪、争いごと、分裂、疑い、 絶望、悲しみにいたる生活に慣れるようにと仕向けます。どうしたら、心安らかな 日々の生活を送ることができるのでしょうか。そのためには、悪魔の巧みな策謀を 見抜くことです。彼らは神への不信の念、不従順、恨みなどをもたらします。その 甘い誘惑に負けてはなりません。むしろ、神への信仰、幼子のごとき従順、赦し、 平安の生活に立ち帰ることです。聖フランチェスコのように日々、祈りの生活を送 ることです。彼は朝な夕なに、祈る人でした。祈りとは断じて私たちのあきらめと か無力さの裏返しではありません。祈りの生活こそが、神の全能の働きを呼び起こ す新しい創造の世界です。祈りによって、私たちはどんな苦難をも飛び越えること ができます。「平和の祈り」を実践し、清らかさを求めて生きることです。



2003年7月13日

勝利ある生活の秘訣

牧師 犬塚 修

あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなた を良い土地に導き入れようとしておられる。   申命記8:6〜7

私たちが勝利感に満ちた日々を送る秘訣というものがあります。それについて聖書は明確 に記しています。上記にあるように、主なる神の戒めを守って生きる道こそが、その秘訣 です。私たちはいろいろな出来事が起こると落ち込みます。そして、これから私たちはど うなるのか…と不安と恐れを感じてしまうものです。そのような時、すばらしい命の源で ある聖書のみ言に耳を澄ませるならば、必ず、すばらしい助けは与えられます。また、主 を信じる人は、いつも次のように自分を言い聞かせることが大切です。「必ず、最悪で、 危機的な時にあっても私は守られる。このつらい出来事も主によって祝福にいたる!」こ れを何度も何度も繰り返して言うことです。なぜならば、私たちはどんな良い言葉であっ ても、つい忘れてしまうからです。私たちが、悲しい出来事で、否定的な感情になりそう な時にも「私はできない、もう無理だ、不可能だ、やめておこう。自分にはそんな力はな い」などという弱い言葉が心に芽生えると、途端に疲れやすくなり、生きる力も湧いて来 ません。そんな時こそ「大丈夫!私はできる。主がなしとげてくださる」と信じましょう。 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)と ありますから。ただし、あせってはなりません。ゆっくりと自分のぺ-スを守って進むこ とも肝要なのです。「しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたた ちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ52:11〜13) あらゆるものを否定したいという悪習慣の暗い泥沼から出て、明るい肯定の大平原への一 歩を踏みしめたいものです。主信仰に立つならば、心は強くなり、主にあって平安と力 に満ちて突き進んでいくことでしょう。



2003年7月20日

重荷から解放された生活

牧師 犬塚 修

わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足が よろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを 見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。  詩編121:2〜4

私たちに対する助けはどこから来るのでしょうか。それは天地創造の神から来ます。主は いかなる災いからも、祝福を引き出される神なのです。いかなる時でも、私たちは主を見 上げます。すると、豊かな赦しと救いが燦燦と降り注いでくるのです。私たちは何も恐れ ないようにしましょう。主は万事をプラスに変えられる神なのですから。「見よ、主なる 神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。…闇の中を歩くときも、光のないと きも。主の御名に信頼し、その神を支えとする者」(イザヤ書50:9〜10) 主が、私たちの 絶対的な主権者と悟り、心から信頼するならば、私たちは平安の子となります。もはや重 荷は私たちから去ったのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくだ さる。主は従う者を支えとこしえに動揺しないように計らってくださる」(詩編55:23)主 イエス様が、墓から復活された朝、悲しみにくれていた婦人たちは主の葬りの墓に急ぎま した。そこで、彼女たちが目撃したことは、主は復活されて、もうここにはもうおられな いという驚くべきメッセ−ジでした。主は悲しみの墓にとどまられません。ですから、た とえ、私たちに気になって仕方がないことがあっても、それにとらわれてはなりません。 それは主の御手にあって、すでに解決済みと信じる事です。いかなる深刻な問題も罪も、 主自らが担い、十字架に釘つけ、解決してくださいました。ですから、何も思い煩わずに、 ただ、主を信じ、従うだけで良いのです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる 神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手 であなたを支える。」(イザヤ書41:10)



2003年7月27日

心満たされる生活

牧師 犬塚 修

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。…空腹であっても、 物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かって います。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。  フィリピ4:11〜13

今の時代は悲しみの時代と言えます。自分の精進や努力ではどうしても解決できない 悲劇が起こります。私たちはこのような重い現実に直面した時、絶望感や無気力感に 打ちのめされてしまうのです。どうしたら、生き生きとした生き方が可能になるので しょうか。パウロは「わたし強めてくださるキリスト」に目を注ぎます。主は私たち の罪のためにむごい十字架にかかられました。それは想像を絶した痛みであり、苦悶 でした。だれもその痛みには耐える事はできないほどでした。パウロは、自分の不遇 さにため息をつこうとする時、すぐにこの十字架のイエス様を見上げたのです。する と、そこに自分のすべての罪や重荷が釘つけられているという事を発見し、心に平安 が与えられたのです。この主の愛と痛みを思うならば、自分の重荷に耐えていけると 奮い立ったのです。もし、悲しい事だけに目を向けますと、心は疲れ果てて絶望して しまうでしょう。彼は悲劇に見えた自分の境遇も十字架の現実を仰いだ時、何と不思 議にも守られてきたかと悟ったのです。そして、深く主の愛の深さ、広さに目が開か れたのです。おそらくパウロは「主があなたたちに約束されたすべての良いことは、 何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した」 (ヨシュア24:10)というみ言に「アァメン、その通りです」と答えた事でしょう。十字 架の救いを思い、自分の目線を低くすることです。高く上げた目には低い場所にある恵 みは見えません。主と共に低くなり、現実をありのままに受容するならば、新創造の世 界が大きく広がっていくのです。


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