巻頭言
2002年6月


2002年7月7日

 「礼拝と従順」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順 でした。
フィリピ2:6〜8

私たちはもっと謙遜な人になって人に仕え、平和を作り出す人になりたい、神谷人の前に、 もっと従順な人になりたいと願って生きているのではないでしょうか。しかし、なかなか、 理想と現実は違っており、そのようになれない自分を発見して失望落胆してしまいます。 どうしたら、そのような人になれるのでしょうか。キリストを見上げ模範とするならば、 それができるようになるのです。主は驚くべき愛と謙遜の生き方は、絶大な心のゆとりに あったと思われます。主の自己受容やセルフイメ−ジ(自画像)は百%、満点であったと信 じます。このゆとりがすばらしい謙遜を生んだと思うのです。私はこれまで描かれてきた イエス像は苦痛、悲しみ、自己犠牲の面が強すぎて、少し違和感を感じます。イエス様の 一生はもっとユ−モアや喜びと明るさがあふれていたと思います。イザヤは「彼は自らの 苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされる ために、彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)と預言しました。苦しみの十字架さえ、主 は満足して私たちの罪を負われるというのです。イエスさまの弟子である私たちも自分の セルフイメ−ジを低くし、トボトボと弱々しく生きてはなりません。自分をダメと思う人 は、ある時突然暴発する危険性があります。なぜならば常に、現実に対して不満を持ち、 ブツブツとつぶやいていると、いつしか敵意と不信の子となり、感謝する心が死んでしま うからです。そして自分を袋小路に追込んでいきます。主に感謝している人は、辛い時も、 すべてを受けいれ、従順な信仰に生き、豊かな祝福を受けていよいよ謙虚にされていきま す。



2002年7月14日

 キリストの従順によって

牧師 犬塚 修

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ5:8

 何の罪もなかったキリストは、従順というものを、多くの苦しみを通して学ばれました。 私たちも同じことが言えるでしょう。ゆえに、苦しみや悲しみも私たちの人生には、益 なのです。これらのものは、私たちを信仰の従順に導く杖に似ています。「死の陰の谷 を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなた の鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩篇23:4) 球技の練習を良くするとい う人に尋ねた事があります。その人はインストラクタ−から個人的なレッスンを受けて いました。「どうして一人でしないのですか?指導者につくというのはなぜですか?」彼 はこう答えました。「我流でやっても、ある程度まででいくと、それ以上は決して上達 しません。スポ−ツは何でも基本が大切で、専門家につかないと無理なのです。」
 信仰も同じことが言えるでしょう。思い込みや我流ではうまくいきません。基本を身に つけるためには、長い努力と時間が必要です。信仰の基本とは従順さによって培われる ものです。み言葉に対し、また人々、とくに主に対しての従順さは信仰の育成のために は不可欠のものです。天才と謳われた人々も、最初の頃は、徹底的に打ち砕かれるとい う訓練を積んだのです。ある時は、自分の思いを殺すほどに、自分を捨て切る時も必要 です。最も優れた道は、イエス様の従順さを学ぶこと、また、恵みに感謝する事です。 たとえ、今の自分がいかに不従順な者であったとしても、いつも悔い改めて、主に立ち 返り、主の豊かな赦しにあずかるのです。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人 とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ロ−マ5:19) 人類の祖は神の命令に背き、不従順な道を選び取りましたが、イエス様は完全な従順 によって、救いの大路を切り開かれたました。その恵みを信じ、神のみ前に従順な者と して生きたいものであります。



2002年7月21日

 逃れの道を知って

牧師 犬塚 修

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
第一コリント10:13

はたらけど はたられど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり、ぢっと手を見る
若くして夭(い)った詩人石川啄木の悲しみが聞えてきそうな一句です。彼の一生は波乱 に満ちたものであり、わずか26才という短いものでしたが、遺されたその詠嘆の歌は、 現代に生きる私たちの魂を強く打つものとなりました。彼は数多くの苦しみに会い、そ の歌も悲痛なものが多いのですが、どこかほんのりとした明るさやユ−モアも漂ってい ます。その理由はおそらく、妹光子の影響ではなかったかと私は思います。光子は兄啄 木の勧めで、クリスチャンとなり、後には熱誠の婦人伝道師、牧師夫人になりました。 この光子に聖書を贈ったのが兄の啄木でした。いかに彼自身が、聖書に心酔していたか が分かります。彼は続けて襲う試練に対して絶望的、悲観的だけとらえることはしませ んでした。必ず、逃れの道があると信じていたようです。その楽観的なものの視点が、 歌に美しく結晶化されたのです。これが啄木の卓越性と思います。この傾向は次の有名 な歌に表現されています。
東海の小島の磯の白砂に  われ泣きぬれて  蟹とたはむる
悲しんで蟹と遊ぶ自分をペ−ソスをもって描いています。辛い現実を嘆くことをやめ、 東海という巨大な紺碧の明るさから始まり、次に緑したたる小島、そして磯の白砂と続 きます。大なる世界から小の自分へと焦点が向けられていますが、そこに「私は神の中に 生きている」というしみじみとした喜びが感じられてなりません。



2002年7月28日

 聖霊と従順

牧師 犬塚 修

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりで なく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
使徒言行録1:8

聖書日課はいよいよ使徒言行録に入りました。この書は聖霊による教会の建て上げがテ− マです。教会は主のみ体です。私たちは教会の中での愛の交わりを通して、訓練され、整 えられ、神の民として成長していきます。イスラエルが神の民であったように、私たちも 新しい神の民として信仰の従順に徹したいものです。しかし、イスラエルの歴史を顧みる と、残念なことですが、彼らは絶えず、主に対して従順な民であった訳ではありません。 否、むしろ、主に逆らい、み心を悲しませ、かつ怒らせました。その結果、国は二つに分 裂し、苦難と悲劇の歩みとならざるをえませんでした。彼らが全能の神を仰いで、従順に 生きる事をやめ、偶像をひそかに拝む事をやめなかったのです。また、近くの国々と自分 たちを比ベあって、落ち込み、自己卑下したりしたのです。
彼らの関心は(神ではなく、この世にありました。その結果、生き方は不安定なものとな らざるをえませんでした。同じ失敗をくりかえさないために、私たちは神の清き霊であら れる聖霊に満たされる事を求めねばなりません。人間的な力では、どうしても疲れ果てて しまうのです。もし、聖霊に従う歩みをし、救いの福音を外に人々に向けて発信していく ならば、神の常識を超えた働きが展開されていく事でしょう。聖霊の風が吹いてくると、 魂は涼しく感じ、生命力がよみがえってきます。主を信じ求めるならば、聖霊はどんな人 の魂にも、おいでになります。それは祝福に満ちた新たな人生の出発の時なのです。「霊に 満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさ い。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名によ り、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18〜20)


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