巻頭言
2001年7月


2001年7月 1日

「神との和解と交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、 また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによ って世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだね られたのです。 (第二コリント5:18〜19)

「和解」は神と人との相互的な関係によって成り立つものではありません。これはただ、一方的な神 の恵みのみわざです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであ れば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ロ−マ5:10)と あります。口語訳では「神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は…」とあるように 「受ける」という受動態に徹する事だけが求められています。感謝せずにおれません。何と言 う深い神の愛でしょうか。この和解は約二千年前にイエス様の十字架によって成就しました。 「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を ただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:20) かつて神と私達の関係は敵意 に支配されていました。アダムの堕罪以来、人間は神を恐れ、避けようとしてきました。また神の イメ−ジは偏ったものでありました。いわゆる「さわらぬ神にたたりなし」とばかりに真実な信仰 生活を拒み、神喪失という負の精神史を刻んできました。その結果、私達は人間関係までもゆがみ、 おかしい出来事が多く起こっています。ボタンの掛け違えのように最初の一歩の時点から関係が 狂ってしまったのです。しかし、神は苦しむ私達に救いの御手がさし伸ばし、十字架の救いによって、 和解を実現されました。神との関係は平和と愛の交わりへと回復されました。 もはや「敵意という隔ての中垣」(エフェソ2:4)も取り除かれました。私達は罪の呪いから解放され、 無条件の恵みを信じて受け入れたならば、罪赦された聖なる神の子とされるのです。この恵みを 多くの人々に告げ知らせたいものです。




2001年7月 8日

悔い改めの道

牧師 犬塚 修

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思 いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。(ロ−マ1:21)

平安時代はほとんと死刑が行われなかったそうです。それ位、日本人は平和を希求する民族性を持って いたと言われています。ところが、太平洋戦争においては、日本軍はアジアの同胞から鬼子、鬼畜と 呼ばれました。何かが失われたのです。豊臣秀吉や徳川家康はキリシタン禁教令を発布しました。 独裁者は聖書にある平等思想や人間の尊厳などの自由思想の萌芽を恐れました。その結果、日本は 鎖国政策の中で、次第に差別思想に懐柔されていくようになります。彼らは公家や武士階級に対する 農民の正当な怒りを抑えるために、あえて最下層の階級を作り出し、彼らを差別することで不満の ガス抜きをさせようと画策しました。ロ−マ皇帝ネロもクリスチャンを殺し、民衆の憤懣のはけ口 とした手口と同じです。民衆もこの支配者側の悪計にのせられていきました。まことの神を神として 認めない生き方は人間を悪魔化していきます。私達の国も事実、特定の人間を祭り上げ、偶像化する ことによって好戦的な国と変質していきました。さらに恐ろしい事に、民衆自身もまことの神への 信仰を侮り、自らの力のみを頼りとし、また自分の行動に責任を負うという責任感を失っていきました。 「寄らば大樹の陰」式の無責任、日和見主義に陥っていったのです。最近起きた沖縄での婦人暴行事件 でも「日米地位協定」という人権無視の差別的な壁に阻まれ、はっきりとノ−!と言えない日本政府の 優柔不断と主体性のなさが目立ちます。また、強い国におもねる国家は弱い人々をいじめるようになり ます。今、重要な事は悔い改めです。まことの神に対して悔い改め、主に立ち返る事です。「わたしは 主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをお いてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(主エジプト記20:1〜4) これは神から与えられた十戒の最初の言葉です。




2001年7月15日

天を仰いで 

牧師 犬塚 修

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘 れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るた めに、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13)

私達は生きていて、人から感謝されることは大変嬉しいことであろうかと思います。「あなたのおかげ でこうなれました。」などというお褒めの言葉を頂いたら天にも昇る喜びを感じるかもしれません。しか し、もし私達が、これらの賞賛や感謝を受けることを人生の目的、生きがいとして、そこに存在価値の基 盤を置いたならば、人生の道は悲しいものとなる気がします。なぜならば、相手に喜ばれる生き方はどこ か窮屈になり、自分の本来の姿をありのままに現せないようになるからです。私達はすべての人に喜ばれ ることはそもそも不可能なのです。 元来、人間は人の前に生きる存在というよりも、むしろ、神のみ前 に歩むように造られたのです。「 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。 「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」(創世記17:1)ここに 真の自由があるのではないでょうか。人から何と思われ、評価されようとも、全く意に介しないという勇 ましい生き方は、生ける神に従って生きる信仰から生まれます。イエス様は無数の人々を愛されましたが、 十字架の時には、多くの者たちが無残にも見捨てました。その忘恩の行ないは主を絶望の淵に追込んだで しょうか。そうではありません。主は自分の定めを甘受して、その残酷な死さえも受け入れられました。 主は自分らしく生き、自分らしく死なれました。主は、自由に生き生きと生きぬかれました。私達の本当 の幸せも、天にある目標に向って、走る事です。後ろのものは忘れることです。永遠の祝福を用意されて いる神の大いなる報いを信じて、まっすぐに主に向く事です。無名戦士の墓に行くと、心が震えるといい ます。なぜならば、名声や賞賛からほど遠い人々の自己存在の比類なき尊厳さが永遠に輝いているからで す。




2001年7月22日

上の空には

牧師 犬塚 修

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のもの に心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリ ストと共に神の内に隠されているのです。(コロサイ3:1〜3)

こんな美しい朝に

空には  夜明けとともに   雲雀が鳴き出し
野辺には  つゆに濡れて  すみれが咲き匂う
こんなに美しい朝に      こんなに美しい朝に
主イエス様は  墓の中から  出てこられたのだろう  水野源三

主イエス様は墓から甦って、最初にマリヤに出会い「平安あれ、おはよう」とみ声をかけられました。私達も目覚めた時、まず主の優しいみ声を聞きましょう。そして、朝ごとに、主が近くにていて下さる事を信じ「かけがえのない一日をありがとうございます」と、主に感謝しましょう。パウロはいつも上にあるものを求めて生きました。上にはすばらしい世界があると信じていたのです。私達はこの世の事だけに心を奪われていると、次第に悲しみや疲れが増してきます。むしろ、大きく広がる空を見上げる事です。パウロは、上を向いて生きようと心がけた人でした。多くの試練や苦しみを体験したのですが、それらを益に変えていった秘訣は、上の世界を自分の居場所にしていたからでした。彼は大空を飛ぶ雲雀のような自由さを持っていました。徳島空港に向う飛行機の窓から見たパノラマは美しいものでした。純白の雲海と紺碧の青に輝く大空との見事なハ−モニ−は、神の創造の美を現していました。そして、私達の本当の慰め、喜び、感動は天上にあると確信いたしました。また、この美しい天上から地を見つめる目が大切であると感じた事でした。この世に生きている間、私達は天の故郷を目指す巡礼者です。心は朝焼けのように、暗黒の帳(とばり)を打ち破って生きていきたいものです。




2001年7月29日

平和を作り出す人

牧師 犬塚 修

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

7月は「神との和解と交わり」月間でした。神との和解に至った人は、その喜びと平安を 隣人伝えていきます。まず神との関係が確立されると、次に人との関係が生き生きとし たものとなるからです。まず、真の神に対する愛、信仰、真摯な応答がいかに重要であ るかを痛感します。今年のファミリ−キャンプは三浦光世師と宮嶋裕子姉をお招きして 行われました。三日間アッという間に過ぎ去り、恵みが滴りました。私自身が感銘を受 けた事は、その信仰の純粋さ、真摯さ、謙遜さでした。師は77才になられるというの に、非常にお元気であり、まるで流れる水のような自然さで、主に仕えておられるお姿 が印象的でした。福音は口だけで語るもではなくて、存在そのもので語るものだという 事が、改めて理解した事でした。確かに神との和解に生きる人は、内側から神の平安が 作り上げられていきます。いろいろな子お話を伺いましたが、その中でも次の証しは深 く私の心をとらえました。重篤の患者であった綾子さんがべッドに横たわっている姿を 見た光世師は、次のようなことを主に祈られたそうです。「神様、私の命をあの人に差 し上げますので、どうぞ、綾子さんを癒してください。私はあなたによって癒され、お 蔭様で今はこんなに元気になり、とても幸せです。私は十分に幸せになりましたから、 どうぞ、この喜んでいるいのちをあの姉妹に与えてください」と。そして綾子さんに奇 跡が起こり、少しづつ回復していったというのです。師はそのように、淡々と静かに語 られました。神との和解の真理を得た人は、自分の命さえも惜しまず、人に与えようと します。そんな人は、暗黒の地に希望の光をもたらし、平和の人として奉仕します。「神 はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉 をわたしたちにゆだねられたのです。」


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