巻頭言
2000年7月


2000年7月 2日

新生を求めての伝道

牧師 犬塚 修

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた (第二コリント5:17)

心身が疲れて来ると、自分の理想通りにできません。そこで落ち込み、つくづくと自分 がいやになったり、自信を失ったりしやすいものです。しかし、そんな時は、悪い感情 を引きずってはなりません。むしろ、信仰に立って思い切って開き直ることです。

「できない時は、仕方がないさ。たとえ失敗しても、できなくても良い。主の赦しは海の ように広い!」と信じることです。そうしないと、自分を責めるという悪い習慣の中に 溺れ、信仰の喜びを失うことになります。力まずに自然体であることです。 ガンバリすぎることも問題です。適当ないい加減さも、時には良いものです。 完璧主義は自己義認に立っている場合が多いのです。無意識に行う自分いじめをやめましょう。 今はできなくてもいいのに、私にはできる、否、しなければならないと必死でガンバッ ていくと、ついには心はボロボロになります。苦しい時にも、そのままを受け入れ、一時的な 休養宣言をすることです。これは大切な充電期間ですから。

私たちはキリストと結ばれて新しい人間になりました。ゆえに、私たちは自分の我力で運命を切り 開くという古い生き方から、主の導きを確信し「万事は主によって益と変えられる」という新しい 生き方へと召されました。私たちは風のようにひょうひょうと生きぬくことです。

これは決して消極的な道ではなく、実は、勇気と信仰を必要とする勇者の生き方です。悪魔は人の 失敗をあげつらい、自己卑下へと引きずりこむのが仕事なのですから、その声に耳を貸してはなり ません。むしろ、私たちは主のみ声に耳を傾けましょう。「あなたがたには世で 苦難がある。しかし、 勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)




2000年7月9日

スチュワ−ドシップ月間に入って

牧師 犬塚 修

わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共に共に あり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。 (イザヤ57:15) 

最近起こった雪印乳業の集団食中毒事件は、大変なショックを全国民に投げかけている。なぜ、 このような最悪の事態になってしまったのか。気のゆるみや「馴れ合い」からなすべき基本的なこと を怠ったために、起こった不幸な事件と言えよう。

それにしても、関係者や社員の家族のことを思うと痛ましくてならない。早く復興してもらいたい。 油断と怠慢のツケは余りに重かった。しかし、これは、私達に対する警告でもあると思う。今の生活 にあぐらをかき、神のみ言葉に聞くことを怠ってはいないだろうか。…祈りの祭壇をこわされていな いか…、いろいろと考えると反省することが多い。

今、自分のような者が生かされているのは、ただ主のあわれみによるしかない、とつくづくと恵みの 主に感謝せずにはおれない。しかし、だからといって、いつまでも、主の赦しに甘えてばかりではい けないと思う。少しづつでも成長していかねば主に申し訳がない。

今月はスチュワ−ドシップ月間である。よく什一献金と一口に言うが、これは、決して簡単にできる ことではない。しかし、油断することなく、主のものはキチンと主に返していく真実な生き方が非常 に大切と思うのである。そうでないと、たまったツケを突然支払わねばならない厳しい時が来るかも しれない。これは愛の主が私達を裁くというのではなく、私達の責任の問題である。 「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)とある。
私達は、自分 の都合を最優先しやすい弱さをもっているが、主中心の生き方で人生を再び構築し、打ち砕かれた 霊の人として生きていきたいものである。




2000年7月16日

主を見上げて

牧師 犬塚 修

「ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の 中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、焼かれずあなたに燃えつかない。 わたしは主、あなたの神、イスラエルの 聖なる神、あなたの救い主。」  (イザヤ43:1〜3)

人生には、いろいろなことが起こりますが、大切なことは自分を見ないで、主を見上げること です。また強く信仰に立つことです。私達は、時々、自分の過去を思い出して、「昔は良かった…」 と追憶にふけったり、現実逃避の誘惑をもったりします。また、将来を悲観的に考える時もある かもしれません。

しかし、どんな時も、今、ここが最高の時、最高の場所として、受け止め、主にすべてを感謝して、 心にある恐れの念を大胆に追い出すことです。恐れや動揺、不安というものは、私たちをいつのまにか 不自由にしますから良く注意することです。主はどんな困難であっても、そこから善を引き出し、 万事を益に変えることがおできになります。ゆえに心配しないことです。私たちは主に深く愛されて います。主はいのちまでも捨てて下さったのですから、主御自身が心配して下さるのです。主は、 私たちを不幸のどん底に陥れられることはありません。たとえ、大河の中を通っても、火の中を歩い ても、私たちは主の御手の中にあってかたく守られます。私たちは厳しい時こそ、信仰は飛躍し、神の羊 として成長していくのです。




2000年7月23日

新生とは何か

牧師 犬塚 修

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、 神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)

 「新生」とは、その名の通り、新しく生まれる事です。人生には、三つの誕生がある と言われています。 第一は肉体面で、お母さんの胎内からの誕生です。第二は心の 面です。これを新しい自我のめざめともいいます。人は皆、父母から離れて精神的に 自立し、豊かな「知情意」をもった責任感のある成人として成長していかねばなりません。

第三は心の一番深みにある霊の領域における新しい誕生です。これは神によってのみ 可能です。これこそが最も重要な誕生なのです。この根源的な面がおろそかになって いる欠陥から、様々の恐ろしい悪弊が生じてくる気がします。

新生は次の三つの「B」によります。最初は Believe(ビリ−ブ−信じる)です。イエスキリストだけが私の救い主であると、 明確に信じる事です。イエス様はこの私のために、犯したすべての罪を背負い、身代わり となって、十字架にかかり死んで下さった事、そして三日目に死から復活し、今も後も、 永遠に至るまで、弱い私達と共に生きて下さるとハッキリと信じる事です。

第二はBaptize(バプタイズ−イエス様を信じて受浸し、クリスチャ ンになること)です。信じた人は、その信仰を会衆の前で言い表し、罪赦された者 として新しい第一歩を踏み出します。即ち消極的な生き方ではなく、積極的な生き方を志す ことです。

第三はBorn−Again(ボ−ンアゲイン−再び生まれ変わること) です。C・コルソンは元ニクソン大統領の下で有能な弁護士でしたが、ウォ−ターゲ−ト 事件に関わり、逮捕されました。だが、その試練の中で主を受け入れました。ついに自分の 高慢さが砕かれ、真実な歩みを牢獄の中から始めました。

新生した人は、自分の為ではなく、神の栄光を現す為に生き始めます。




2000年7月30日

新生とスチュワ−ドの道

牧師 犬塚 修

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために 苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピ1:29)

今年のファミリ−キャンプも、主のすばらしい恵みの内に終わりました。三日間は楽し さと霊的な感動に満ちたものでした。年に一度のこのキャンプはふじみ教会にとって、 心から誇り得る愛と恵みのすばらしい祭典です。それは一年かけて、祈りながら手作りで 準備してきたものだからです。講師の川内研二先生の説教は熱く胸打つものでした。

「時計はどんなに高価なものでも、人間の腕に巻かれないと、何の価値もない。そのように 人間も神の大切な所有物とならねばならない。なぜならば、人間はもともと神のかけがえ のない宝物であるからだ。そして私達も神のために生きてこそ、初めて幸福となり得るの だ」という鋭く明快なメッセ−ジでした。 このことから、改めて信仰とは、自己満足や自分の幸福追求のためではないこと、また幸 福とは信仰の結果、主の恵みの賜物として、天から与えられることを示されました。その 意味では、パウロの生き方は清々しいものでした。彼はわれを忘れ、犠牲もいとわずに、喜んで主に従いました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フイリピ3:8)と大胆に書いています。彼にとっては、主のために自分の大切なものを失うこともどうでも良かったのです。彼はキリストの教会の欠けたところを補い、支える事を、なによりもすばらしい生きがいとしました。即ち新生した人は、価値観が変わり、キリスト又、教会のために苦しむ事を喜びとします。真のスチュワ−ド(しもべ)は「縁の下の力持ち」のような生き方を喜んでなし、共に重荷を分かち合うのです。



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