巻頭言 1999年6月 |
「主の召しに応える教会−−讃美」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
主は言われました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分 の足で立て。…あなたを奉仕者、また証人にする。(使徒言行録26:15〜16) |
主のみわざは何とふしぎでしょうか。主は教会を迫害していたパウロを召し出し、
使徒とされたのです。パウロはまさか、自分が主の目にかなうとは夢にも考えな
かったでしょう。彼は主を憎んでいる男であったからです。
このように、主は人
知をはるかに超えた平安に至る計画を持っておられます。故に、私たちは起きる
出来事に一喜一憂せずに、また結論を急がないように心がけたいものです。辛い
事が起こると私たちはどうしても悲観的、否定的な結論を想像したりします。し
かし、主に従う人生には「一発大逆転」のことが起きるのです。それは突然予期し
ない時に来ます。主のみ心は私たちへの全き愛です。ですから、どんな時でも主
の愛と守りを疑わずに、信じ続けましょう。
「あぁ、なんと深いことか。だれが神
の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせようか」(ロ−マ11:33)とあります。
このように主の召しに応えるためには「さあ、この厳しい事柄から主はどんな良い
結果をもたらして下さるだろうか」と祈りと希望を持ち続ける事です。万一、人間
的にはそのように思えなくても、信仰の目を用いて見えない事実を確認する事です。
その時、ふしぎな平安が与えられます。現実は同じですが、、心は変えられていき
ます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれ
を、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)
みことばにより、主の平安を得た人は、主のために喜んで生きる奉仕者、証し人とさ
れるのです。
神様の目で…
牧師 犬塚 契
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪 を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 (ヨハネ一 4:10) |
第二次世界大戦のとき、ユダヤ人よりも先に虐殺された人々がいました。知的障害
者の方々です。なにも、生み出すことができない、非生産的な、役に立たない人間
だとされたからです。
先日、八百屋の配達途中に、知的に障害を持った方に会いました。はじめはそうと
は気づかず、急に道路を横断しようとしてきたのでムッとした顔をしてしまいました。
その私に満面の笑みを浮かべて挨拶をされたのです。「愛をふりまかれたな」と思い
心温かくなりました。
ファシズムが主張したように、本当に何も生産的なことができないのでしょうか。
否、それは間違いだったのです。愛をふりまくことができるのです。神の御心が
Tヨハネ4章にあるように、互いに愛し合うことなら、たとえお金を稼げなくても、
人と同じことができなくとも、十分に神の栄光を現して生きていける神の最高傑作
なのです。神は失敗作品は決して造らない。人がどう見るかでなく 神がどう見る
のか。神の目で、自分を見ていく。人はいろんな事言うかもしれない、自分は自分
で、自分の心をチクチクやるかもしれない、しかし大事なことは、人や自分がどう
言うかでなく、「神が何と言い給うか」。神の目で自分を見ていく世界。神のやさ
しいまなざしを十分に感じながら生きていく。
御子イエスキリストを遣わし、十
字架につけてまで、罪の泥沼から救い出そうとしてくださった。罪の悪臭のする、
そのままの私達を、抱きしめて決して離さない そんな神様を信じていきたい、信
じている、そして伝えていきたいのです。神の目で自分を見るという土台のもと、
はじめて神の召しに答えられるようになるのです。
召しに応えて
牧師 犬塚 修
イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 (マタイ4:19〜20) |
イエス様は漁師のペテロとアンデレにみ声をかけられました。その時、彼らは
すぐに従ったとあります。主は特別の使命を与えるため、私たちを召し出され
ます。その時、自分の都合を並べて「待って下さい。私には私の意見や考えが
あります。」と言いたい誘惑にかられるのではないでしょうか。確かにこの世
界には「不従順」をもたらす悪霊の働きがあって、私たちを主の召しから遠ざ
けようとするのです。
たとえば、一時は歓呼の声を張り上げてイエス様を迎えた
群集も、すぐに興奮から醒めると、今度は十字架の主に対して、侮りの声を上げた
のです。どうしたら私たちは主の召しに従うことができるのでしょうか。
第一に
自分の罪深さを自覚することです。イエス様のみ声に聞き従ったペテロは、余りの
恵みに驚き「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
(ルカ4:8)と叫んでいます。ここにペテロの秀でた自己理解がありました。
自分の罪を悟った人は、謙遜な神の働き人とされていきます。
第二は、み言のみに
目を注ぐことです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしく
ない。」(同9:62)とあります。ロトの妻は後ろを振り向いたので塩の柱と
なってしまいました。もし、私たちが現実だけを重視する世俗主義に陥るならば、
必ず不信と不安という暗い穴に落ちてしまうのです。これは教会を内側から腐敗
させる死の毒です。孤高なまでにみ言に信頼して生き抜くことです。
行間に書かれないことの恵み
牧師 犬塚 契
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの 主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 (ローマ7:24b〜25a) |
山崎房一著「心が安らぐ魔法の言葉」を読んだ。色々と教えられることも多かった。
信仰生活に入りたいと一生懸命努力した彼は、こう書いている。「…十字架は
完全な自己否定だった…あるいは、キリストさまに自分の人生をハイジャック
させることだったのかもしれない。生殺しの私、煩悩の多い私にはキリスト教
の真髄がわかるはずもなく、罪悪感のとりこになってしまうばかりであった。」
結局、彼は信仰には至らなかった。
使徒パウロも同じようなことを思った。「なんと惨めな人間なのでしょう」と
自分を嘆いている。罪悪感のとりこという罠にハマッタこともあっただろう。
しかし、上記の聖書個所、罪への悲痛な自己否定と感謝の言葉の行間には
何もないことが救いなのだと思う。罪許されるべき自分がいて、その罪を
許そうとする神がキリストを遣わした。それが、唯一の真髄なのだ。自分が
無になって生きていくことや、煩悩を消してしまおうという努力で救われる
のではない。「私の罪を許してください」という告白、信仰のみが人を救う
のである。
パウロが行間に何も書けなかったのは、HOW TO(どうやって)で
救われるのでなく、WHO(だれが)が唯一の救いだからである。パウロが
努力で救いを手にしたのだったらそう書いただろう、しかし行間には何も
書かれていない。ただひとつ、キリストだった。キリストは「わたしに
従いなさい」と言った。「わたしになりなさい」とは言っていない。神に委ねる
とはキリストのハイジャックではなく、神に応答することである。無視する
のでなく聞かないフリするのでなく応答なのである。
たとえば、一時は歓呼の声を張り上げてイエス様を迎えた
群集も、すぐに興奮から醒めると、今度は十字架の主に対して、侮りの声を上げた
のです。どうしたら私たちは主の召しに従うことができるのでしょうか。
第一に
自分の罪深さを自覚することです。イエス様のみ声に聞き従ったペテロは、余りの
恵みに驚き「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
(ルカ4:8)と叫んでいます。ここにペテロの秀でた自己理解がありました。
自分の罪を悟った人は、謙遜な神の働き人とされていきます。
第二は、み言のみに
目を注ぐことです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしく
ない。」(同9:62)とあります。ロトの妻は後ろを振り向いたので塩の柱と
なってしまいました。もし、私たちが現実だけを重視する世俗主義に陥るならば、
必ず不信と不安という暗い穴に落ちてしまうのです。これは教会を内側から腐敗
させる死の毒です。孤高なまでにみ言に信頼して生き抜くことです。