巻頭言
2023年6月


2023年6月4日

「霊の執り成し」

犬塚 契牧師

被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。         <ローマの信徒への手紙8章 3−17節>

 だんだんと動かなくなる体、かすんでくる目、深まらない思考、下がらない血圧、お薬で調整が必要な脳内物質…あちこちに切実なうめきが聞こえてきます。えっーと、天使だったらこんな悩みはないのかもしれないけれど、こっちは生身の人間ですから、どうしたってうめくものです。この体を願ったわけではありませんが、生かされる限り生きていくしかない身です。しかし、パウロに言わせれば、ときに脱ぎ捨ててしまいたいと思うくらいのやっかいをまとわせつつも、死ぬはずのものがいのちに飲み込まれてしまう希望をもそこに脈打たせています。うめきは執り成され得るのです。ちゃんとうめいてよいのです。贖われることを信じつつ、うめいてよいようです。そして、続きを読むならば、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」ているようです。なーんだ、どうせ、うまくいくのだ。それまで、ジタバタしていようか。「安心してください!救われていますよ」。そう呼びかけたくなるものです。▲イエスキリストの受肉、十字架、復活の出来事を通して示された神のものがたりは、人が創作することのできない壮大を描いています。きっとそうですが、それにアクセスするのは、私たちのうめく体です。それはそれで感謝なことだなぁと。



2023年6月11日

「主の名を呼び求める者は」

犬塚 契牧師

 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。             <ローマの信徒への手紙10章5-13節>

 はるか遠くの秘境を目指し探して、仙人が住んでいそうなところまで行きついて、ようやく大切なものを見つけるというストーリーを幼い時のテレビにたくさん見てきました。そういうものだろうとなんだか馴染んだ気もします。2000年前のローマの人たちは、「日本昔ばなし」は知らないと思いますが、似たように考えもしたのでしょう。人が神の前に立つときの手土産のひとつ、善行の証明、払われるべき犠牲…。人の宗教心は、いつもそういうことが神より求められているのだと自然に反応します。神の愛を語れば、神は愛だけの方ではないと聞こえ、神は義であり、聖でありとバランスのとり方が提示されます。愛しにしろ、義にしろ、神の何かの性質を人が語りつくすことなど、決してできないのに、振り子の幅は最小限に抑えようという抑制が働くものようです。人は不自由なのだなぁと実感をしています。しかし、そんな混迷によい知らせも届いています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」近く、近く、近くにある救いの知らせです。口と心とは遠くにあるものではありません。



2023年6月18日

「神の秘められた計画」

犬塚 修牧師

 「すべてのものは、過去から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」 <ローマの信徒への手紙11章36節>

 大雨が降りしきる地上を離陸した旅客機が、厚い雲を突き抜けると、コバルトブルーの青空が広がっている。そのように、この地上の私たちの生活が、いかに暗く、不条理なものであっても、神の秘められた計画は、大空のように果てしなく広大で、永遠の栄光に満ちている。それは、11:36のみ言葉そのものである。▼物事を正確に、かつ深く見つめるのに、このような鳥瞰図的な視点が必要である。鷲は空高く飛ぶことによって、全体を視野に置くことができる。他方、狭い事実だけに目を留めてしまうと、偏った見方になり、一部分だけしか見えなくなる。パウロは、一部分だけを見て、ひどく悩んでいた。それは、同胞のイスラエル人の救いに関してであった(9:1〜3)。彼らが、キリストの救いを侮り、信じようとしなかったからである。▼しかし、そこにも、神の深遠な秘められた計画があることを悟るに至った。即ち、「イスラエルの悲劇は、異邦人の救いのために起こった」という神からの啓示を得たのである。イスラエル人と異邦人は、深い関係で結ばれ、それゆえに、相手を必要とし、受け入れ合うのである。神は不従順な人をも、赦してくださる。神にあっては、無駄な事、空しい事が一つもない。すべての人々を用いて、栄光を顕わされるのである。神は、私たちを命を捨てるほどに、愛しておられるのである。


2023年6月25日

「聖なる生けるいけにえとして」

林 大仁神学生

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。  <ローマの信徒への手紙 12章1節>

 パウロは言います。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさいと。体ということですが、われわれの人生そのものと言ってもいいのかもしれません。神に喜ばれる体、神に喜ばれる者として、われわれは、神に喜ばれる人生を歩むためにはどうすればいいのでしょうか。そのための大前提が1節に書いてあるような気がします。礼拝というと主の日のそれを想起しますが、1節で、自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げることがわれわれの為すべき礼拝と指摘している点を踏まえると、われわれの生き方そのもの、われわれの人生そのものが、礼拝とならなければならず、それでもってわれわれは、神に喜ばれるようになるということが分かります。神に喜ばれる方法の1つ目、まずこの世に倣ってはいけません。この世の目指すものと言えば、お金や名誉、地位などが挙げられます。もちろんそれらは必要なものですが、それに倣ってはならず、ましてやそれらの奴隷になってはいけません。2つ目は、心を新たにし、自分を変えてもらい、神の御心や何が善いことなのかを弁えられるよう、常に神に祈り続けることです。では、その次のステップでわれわれは何をすべきでしょうか。われわれが神の憐れみによって生けるいけにえとなると、神はそういう私たちを、キリストに結ばれて教会を形成する存在とならしめて下さいます。ここで大事なのは、キリストに結ばれることです。キリストなるイエスに結ばれることです。イエス・キリスト以外に結ばれることがあってはなりません。天の創り主、われわれの唯一なる神様は、イエス・キリスト以外の救いの道を示したことはありません。イエスの他にも救いの道があるのではないか、なぜイエス・キリストでなければならないのか、心が狭いのではないか、なぜもっと包容しないのか、等々イエス・キリストの唯一性を揺るがすことを言う人たちがいますが、惑わされないようにして下さい。ヨハネの手紙一4章2節〜3節には「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」と書いてあります。われわれは、そういうイエス・キリストに結ばれてキリストの体たるこの教会に集められ、教会を生けるいけにえとすべく今日もこういう風に礼拝を献げているのです。



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