巻頭言
2022年6月


2022年6月5日

「嵐の日があって」

犬塚 契牧師

わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、「こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」      <使徒言行録27章13−38節>

 囚人パウロ、ローマへの旅の最中。船出の季節には、少し遅かったようですが、悪いことに、ちょうどよい南風が吹いてきて、出航した船は「エウラキロン」というこの時期の暴風で難船してしまいます。出航前、一囚人パウロの意見は誰にも聞いてもらえませんでした。しかし、「ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め」ます。船を軽くして、座礁を避けつつ、できるだけ島近くを航海したかったのでしょう。それでも、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとして…」いました。こんな時に、囚人の一人に過ぎなかったパウロの声が聞かれていきます。「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。」順風には聞こえなかった言葉、平常時には響かなかった言葉が、この時にはひらかれていきます。「わたしは神を信じています」と語る人が必要な場面があり、この言葉が大切な時があるようです。そんな不思議は、2000年前の難船の記事の中だけでなく、今を生きる私たちにもあることでしょう。そうありたいと思います。『パウロ、恐れるな…』とありますから、パウロも荒れ狂う嵐と大きくきしむ船体に恐怖を感じていました。そんなパウロを「神からの天使が…」力づけています。これまでのように「主」でも「イエス」でもなく、天使が力づける…その差がどれほどなのか分かりません。しかし、今はそれで充分です。細かろうと弱かろうと聞こえています。五感を超えて、魂のアンテナが希望を拾いました。上手に説明できませんが、理屈でない平安があります。



2022年6月12日

「聖霊は語り続ける」

犬塚 契牧師

 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。    <使徒言行録 28章17−31節>

 使徒言行録の最後。パウロは、いよいよ悲願果たすべく、ローマに到着しました。しかし、囚人としてでした。かつてのように会堂を使うことができたわけでもなく、自由に動けるわけでもありません。パウロの片腕についた鎖は、番兵の片腕にもついていたでしょう。そしてまた、皇帝へ上訴は、多くの場合、無罪であっても死刑に処せられたようです。聖書にはありませんが、この丸二年間の軟禁生活の後にパウロはイスパニアへ続く道のほとりで殺されたと伝わります。もし、無罪を勝ち取り、この後も伝道が続いて行けば、きっと喜んで記したことでしょう。実際、著者ルカは28章までに死が近いことを度々匂わせて書いています。「わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」(21:13)しかし、パウロの死までをルカは残さずに書き終えています。あくまで伝道者パウロの伝記でなく、聖霊の働きがテーマということでしょうか。また皇帝に上訴しながら、訴える者たちがローマまで来ないということ当時は頻繁に起こり得たようです。だとしたら、なんという理不尽と不条理かと思います。こんな茶番に付き合ってはいられないはずです。訴える者の誤解、曲解、見栄、体裁、妬み…根深い嫉妬心。命を懸けるほどのテーマではありません。こんなもののために死んではいけないと思います。しかし、パウロより30年前の主イエスの十字架刑も宗教的指導者たちの妬みによるものでした。こんなもののために、人間の勝手なルールにわざわざ従って神の御子は地上で血を流されました。▲2019年12月中村哲さんが殺されました。犯人は不明。砂漠に引いた水が利権となり妬みの種になったとする記事を読みました。こんなことがまかり通った世界が広がっています。もう捨てちゃえば…そう思います。▲ルカは、この後の悲惨を十分に知りながら、使徒言行録の最後の28章を「勝利宣言」で終えました。「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え…」。おかしいじゃないか!しかし、良かったとも思っています。ホッとしています。▲なんだか巻き込まれて、ややこしくなって、いつも恐れが拭えず…でも、捨てたもんじゃないな。いや、きっと素晴らしいな。主イエスの蒔きたまいしいのちの種が芽吹くのを見つけたいのです。



2022年6月19日

「今や、明らかにされた!」

犬塚 契牧師

 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。…知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。 <コロサイの信徒への手紙 1章24‐2章5節>

 知らなければならないことが膨大にあるように思って生きていた時は、随分と焦っていた気がします。知らぬことの焦燥が知っていく喜びを上回ってしまうとなんだか学びも急につまらないものになってしまいます。アメリカの牧師たちのアンケートを10年以上前に読みました。9割が学びの足りなさを自覚しているような内容だったと思います。なるほど、なるほど、安心と愕然とを同時に感じました。どの分野でもあるのでしょうが、神学にも潮流のようなものがあり、体力があるときはともかく、やっかいごとのあれこれと抜けぬ疲労感の中で潮の中に揺れるのは難しいことです。それでも、「やはりすたりすぎない」と教えてくださった方のおかげで随分と気が楽になりました。コト、聖書のこと、神学のことなので、もっと大切なのかと勝手に思い込んでいました。売れる本が書店にならぶ、それは売りたい側の事情が大いに絡んでのことでしょう。たまにユラユラ揺られつつも、商戦や一時のブームの下に流れるものに心を落していくことが大切なのですね。▲そして、コロサイ書に触れています。神の秘められた計画とは、主イエスキリストであり、知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れていますとありました。かつてのようにやみくもに焦ってはいません。主イエスキリストを通して、せかいを見直したいと願っています。おかしな色眼鏡を少しずらして、主イエスキリストをとおして神の本音を確認したいと思っています。出来事に引きずられる癖がありますし、失望に早い者です。だから、主イエスにこだわらなければ、生き得ないのだと思っています。


2022年6月26日

「新しい人を着て」

犬塚 契牧師

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。…キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 <コロサイの信徒への手紙 3章5-17節>

 「貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝」とパウロは書き「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります」と続けました。こういう厳しいところは両目をつぶって読むようにします。まともに耳を傾けたら、命がいくらあっても足りません。日々、ごまかし得ない自分の心の内を嫌々に見させられています。万回も繰り返した「悔い改め」をほとんど信用していません。むしろ、むしろ、パウロがコロサイ教会に宛てた手紙で描いた信仰者の姿こそ「偶像」のように思えますし、それに苦しめられるとしたら、それこそが「偶像礼拝」になり得はしないでしょうか。…ただ、きっとそのようには読んでいけないのでしょう。私は、何か読み間違えているようです。▲獄中のパウロは、行ったことのないコロサイ教会に、いたずらに高い倫理基準を送り付けたわけではないでしょう。「キリストがすべて」と書く者は、自分で積み上げた”徳”や”善行”にあぐらをかけはしないのだと思えます。「キリストがすべて」でなければならない有様を知らされ、事実そのように覆われ、贖われてはじめて生き得るものがありそうです。▲創世記3章のアダムとエバ。主なる神の足音を聞いて、二人は答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」神に否定されるべき自己認識がありました。遠からぬところを生きています。3章のつづき「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」神からの肯定をも知るのです。主イエスキリストの十字架は、AD(主の年)に生かされた者に対しての、底知れぬ肯定と解して、人生の一歩を生きたいのです。▲「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ガラテヤ書3:27



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