巻頭言
2020年6月


2020年6月7日

「人は違いに目を向け」

犬塚 契牧師

しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 <使徒言行録10章9-16節>

 異邦人に福音が知らされ、聖霊が与えられた10章は、後の教会の広がりにおいて、大きなターニングポイントでした。ローマの百人隊長コルネリウスの個人的な回心に多くの紙面がさかれています。ペトロの伝道旅行中の出来事でした。ペトロがその間に滞在したのは、皮なめしの職人シモンの家でした。皮なめしとは、当時、汚れた仕事であり、卑賎な生業とされていました。ペトロは、その家を拠点としていたようです。想像するに、彼が超えていた差別の壁は、そうそう低いものではなかったと思います。恐らくは、やさしい人間でもあったのでしょう。しかし、人間のやさしさとは、どれほどのこともなく、いつだって限界が透けて見えるものだと思います。空腹のペトロは、不思議な夢をみました。レビ記で禁止されていた動物たちが布にくるまって降りてきて、声が聞こえます。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」幼い時からそれらのものは食べることも、触れることもダメなものでした。何かしらの理由で、「変わり種」であり、アブノーマルなものでした。そういった線引きの構図は、人と人の間にも影響を与えていきます。異質なものへの拒絶は、汚れを意識させ、ある面では人々を守り、ひいては神の聖さを意識するにも至ったでしょう。しかし、主イエス・キリスト…。主イエスキリストは、汚れた病の人に触れました。それでも汚れはしませんでした。罪深い女と町中のうわさのあった女性が足に触れ、香油を注ぎ、髪で拭き上げるのを受け入れました。取税人たちと食事をしました。死んでしまった少女の手をとり、声をかけました。「タリタ・クム(少女よ起きなさい)」。イエスキリストは、汚れることなく、人々は癒されていきました。主イエスは、かつての掟を反故にし、捨てしまい、新しい道を拓いたというよりも、ご自分の身をもってそれらを成就したのだと聖書は語っています。わたしはもしそうであるならば、嬉しいのです。



2020年6月14日

「主に倣うもの」

犬塚 契牧師

そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、…<テサロニケの信徒への手紙T 1章6節>

 「何かひとつでもよいことがあれば…順調に運んでいることがあれば…続いているよい関係があれば…次への兆しがあれば…」大抵は深刻さを装いつつ、恥ずかしいような気分の課題なのでしょう。それでもやはり四方に足らず、八方塞がりの時があるかもしれません。痛みの渦中では、そうとしか見えないものです。▲パウロの時代から遡って600年前の預言者エゼキエルが見た幻は不思議でした。彼は主の霊によって、骨で満ちた谷に連れていかれます。そこで問いかけられます。「これらの骨は生き返ることができるのか。」骨は…骨は、無理です。ここまで枯れてしまっては、夢も希望もありません。連れてこられた場所は、できるだけ早く立ち去りたい場所です。それでもこの預言者は立派でした。精一杯に答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。私ならば、怒りと悲しみと無理解、無神経に口を堅く閉ざしたと思います。なお神が求めたことは、さらに酷なことでした。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。…見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」わずかな可能性を願って、宝くじを握りしめて当選番号を探すワクワク感ではありません。見させられているのは外れ券ですらなく、カラカラの骨です。絶望的な出来事の前で、なお信じて、希望し、口を開いていくことの難しさは、すぐに言葉にならずとも、心のどこかが覚えてきたことです。それでも、エゼキエルは預言し、枯れた骨が復活するのを目の当たりにし、失望する民への言葉を取り戻していきました。▲パウロは、マケドニア地方の首都テサロニケでの伝道中にユダヤ人たちの妬みにあって、町から離れざるを得ませんでした。残された人々は、ならず者たちからの迫害に苦しめられています。(使徒言行録17章)できあがりつつあった教会は、宣教師パウロを失って、ほどなくして消滅はずでした。しかし、なおテサロニケの人々は、神の言葉に留まり続けました。その知らせを受けたパウロの喜びがあふれた手紙です。それにしても、何故でしょうか。わずかに残された芽が育ったのでも、テサロニケの人々の宗教的センスが花開いたのでなく、枯れた骨のごとくでした。しかし、キリストと共に十字架つけられ、葬られ、キリストとを共に甦らされるという福音があったのだと思います。「〇〇ファースト」の世の中で、主イエスの道は、逆に細く細く伸びているようです。キリストと共に死に、キリストと共に新しいいのちをいただきつつ「悔い改め闘争」を歩む。「主に倣う者となりたい!」標語でなく、いのちの置き場はそれのみだったのはないかと思っています。



2020年6月21日

「咲かなそうな場所で」

犬塚 契牧師

わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども…しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、…わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。           <テサロニケの信徒への手紙T 2章より>

 「(テサロニケに行ったことは)無駄でなかったどころか…」とパウロは手紙で綴りますが、そこに滞在できたのは数か月に過ぎず、激しい反対によって、追い出されたのです。その前の滞在場所フィリピでも逮捕、鞭打ち、投獄され、テサロニケでは協力者ヤソンの家が襲われ、次の伝道地ベレアでもやはり騒動が起きています。現代の宣教師や牧師たちが同様の報告をしたならば、果たして教会はそこに神の介在を見出すことはできるでしょうか。「宣教方法が違うのではないか」「順調でない原因があるはずだ」「祈りが足りないのでは」「祝福されないのは神の御心と違うからだ」…そう考えるのが普通に思えます。しかし、この手紙にそんな悲壮感はありません。まるで見えている景色が違うようです。抜き差しならない場において、賜った“いのち”の置き場を知る人たちの息遣いを感じています。私自身は渦中にあり、上手に言えないのですが、現代は“いのち”を神から強奪しているのではないかと思っています。「好きにして何が悪い」という高慢さも「どうにでもなれ」という卑屈さも地下茎でつながっています。▲最近読んだ本の一文が心に残りました。「自分を後生大事にしてはいけないよ、とイエスはいわれる そのように思わないひとのところにこそ わたしたちが 愛と呼んでいる力が ゆたかに注ぎ込まれるからだ」「神よ この〈わたし〉というものを わたしはいま あなたとわたしの間におきます どうか み恵みにより この〈わたし〉を わたしたちの間から 取りのけてください」(イェルク・ツィンク「わたしはよろこんで歳をとりたい」)▲パウロは“いのち”を主イエスとの重なりで受け止めていたのだと思います。手紙の2章に記した彼の思いは、そのまま主イエスの姿です。「幼子のように」生まれ、「母親」のようにいとおしく思い、福音を伝えただけでなく、「自分の命さえ喜んで与えた」のは、パウロの先に、主イエスでした。▲コロナ禍にあって、「いのち」が語られています。私自身、何に相対して生きていたのかを省みています。人生を何に装わせていたのかを考えています。テサロニケの信徒への手紙を読みながら、パウロはどうであったのかを改めて知らされています。



2020年6月28日

「有機的関係に生きる」

犬塚 修牧師

「あなたがたが主としっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」<第一テサロニケ3:1〜13節>(8節) 

 パウロは、以前に伝道したテサロニケ教会の面々について、気がかりでならなかった。なぜならば、その教会は執念深い敵の攻撃を受けて、大きな苦難に直面していたからである。彼らの信仰が揺さぶられ、ついには信仰を捨ててしまうのではないかと、パウロは心配でたまらなかった。そこで、我慢ならなくなって、愛弟子のテモテを遣わして、安否を知ろうとした。▲そのテモテがついに帰ってきて、彼らはしっかりとイエス様を信じて、主に従う生活を続けていると知らせてくれた。パウロは大喜びして、上記の言葉を書いたのである。▲ 苦難について―なぜ教会が苦しみに遭うのかは、難しい問いである。しかし言える事は、苦難を体験する事によって、より深く愛する主を知り得る恵みを忘れてはならない。信仰は人生の荒野で、成長するものである。ゆえに苦難に出遭った時、災いであるかのように、戸惑いと動揺を持たない事が大切である。また、苦難を受けた時は、心のあり方が問われる。人からの冷たい仕打ちや言葉が私達の心を突き刺す事がある。それを真正面から受けてしまうと傷だらけとなる。それを受ける角度を変えるのである。つまり、自分の心を主に向けるならば、飛んでくる毒矢も、角度によっては、かすり傷となるのである。生真面目に人の無責任な言葉を真正面から受けてはならない。聞き流す事である。▲有機的関係―有機的とは「一つの命に結ばれている」事である。体の部分はそれぞれが堅く結びつき、命を通わせている。他方「無機的」とは、各部分がロボットのように分離していて部品のようである。相手と自分は分断されている。主は私たちを有機的存在として創造された。それゆえに、パウロはテサロニケ教会の信仰状態が、自分の事以上に重要であった。彼は「共に泣き、共に笑う」有機的関係に生きた人である。▲結果ではなく、経過を大切にする―私達は経過よりも「結果、結論、成果、業績、成績など」を重要視しやすい。しかし、結果主義的になると、その人は律法主義者となる。「あなたは十分な仕事を果たしていない。あなたは不完全過ぎる。あなたは何一つ結果を残していない」と責めるのである。その怒りが自分に向くと、鬱的となり、他人に向くと、弾劾や裁きとして多大な苦しみを与えてしまう。パウロは「経過」「を大切にした。彼はこの教会の事で、悩み、苦しみ、ついには狂喜している。その時々を感謝して、一日一日を精一杯生きている。彼は経過(プロセス)を楽しむ事ができたのである。




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