巻頭言
2019年6月


2019年6月2日

「自由へと」

犬塚 契牧師

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 <ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節ガラテヤの信徒への手紙1章1-10節>

20年近く前、伝道集会の奉仕で来られた講師に、ばったりかち合わせたトイレで、唐突な質問をしました。「律法的であることから自由になるのにはどうすればよいのでしょうか」。きっと「こうあらねばならない」という思いが日々に募っていたのだと思います。講師はすぐに答えてくれました。「律法的であることに、うんと苦しむことだよ」と。えっ?んっ?んー。すぐにピンとくるものではありませんでしたが、時々思い出します。そして、何だか少し分かる気がするようになりました。恐らくは苦しんだ先に、見えてくるものがあるようです。通り抜けた先の開けた地ではなく、そこを行かざるを得ないような道のようなものです。主イエスキリストが共に歩まれなければ行けぬ道です。それは、福音の響くところであり、本当の自由のある場所です。▲ヨハネ8章で姦淫の現場で捕まった女性が登場します。早朝の神殿の境内で起こった裁き合いの場面です。律法に従えば石打であり、愛を貫けば律法違反になる巧妙な罠でした。結果は、誰一人としてこの女性を裁くことができず、また誰一人として共にいることもできませんでした。主イエスだけがその場を去らなかったことが深く印象に残ります。彼女は、この時自由を得たのではないかと思います。自分で勝手に自由を決め込んで、謳歌したのでなく、主イエスと共にあることが自由であることを知ったのではないかと思うのです。心底、赦された者の姿です。彼女の罪を背負って、主イエスは十字架に向かうのです。



2019年6月9日

「新しく創造されて」

犬塚 契牧師

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に…   <ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節>

ガラテヤ書を読みなおしてきました。律法か福音かの二者択一として読んでいましたが、どうやら浅かったようです。当時の状況に思いが至りませんでした。反ユダヤ主義の盛り上りに翻弄されて苦しむエルサレム教会とそんな迫害ゆえに民族主義的になるキリスト者たちがいました。しかし、彼らの歩幅を越えて、福音はますます異邦人に広がり、神の民が世界中で加えられていきます。教会の黎明期…強風と荒波の航海の中で、アイデンティたる“律法”をガラテヤの教会に伝えに来た伝道者たちがいても、不思議ではありません。▲2000年の時を経て、おしゃれアイテムに変わった十字架をかつての意味で捉えなおすにいささか難しさを感じています。しばし黙考します。▲…考えられる限り恥辱の象徴でした。ローマは、十字架刑を用いて国を支配していたのです。「こうなってはいけない」とローマは見せしめ、「あぁなってはいけない」と民衆は理解したのです。しかし、あろうことかパウロはこれを誇りとしました。このインパクトは想像を超えます。覆水が盆に戻り、昼夜が逆転し、天地もひっくり返り、闇は光となり光は闇となり…。再び行き着いて思います。十字架はどこに立つのか。パウロは、神と自分の間に立てました。罪の醜悪な形、人間の絶望、神との断絶、…十字架は多義的なメッセージを放ちます。イエスキリストは十字架上で、「わが神、わが神どうして…」と叫びました。それは、本来、人の叫びであり、パウロの叫びであり、私の叫びです。しかし、神はそれを人に言わせることを良しとせず、愛する御子主イエスの言葉とされました。



2019年6月16日

「主イエスのいのち」

犬塚 契牧師

一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。    <フィリピの信徒への手紙1章12-30節>

パウロの獄中での手紙。監禁されている兵営(13節)があったのは、エフェソだったのか、ローマだったのか。ローマとすれば、書かれたのはやはりAD60年あたりで、パウロの晩年の手紙か。…いくつかの聖書の訳を比較し、関連書物に目を通します。「調べる」といつの間にか「手紙」の息遣いが聞こえないので、やっぱり聖書に戻って聞いています。▲パウロの信仰の旅路に終わりが見えています。死期が迫っていることを否定することができません。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(21節)。フィリピの教会に手紙を書いた理由を思っています。恐らく、伝道者の逮捕、監禁は、教会を揺るがせたのでしょう。パウロの行く道は、やがて自分たちの行く道に思えました。もし神が生きておられるのなら、なぜ伝道者が逮捕され、理不尽な裁きを受けねばならないのかという疑問もあったのだと思います。パウロは獄中から、逮捕されたことによってローマの兵営全体に主イエスキリストの出来事を伝えることができたのだと言ってのけました。ハッタリでも強がりではないでしょう。あの回心から30年を過ぎたパウロの神への信頼の深さを感じています。そして、パウロの逮捕によって、覚悟を決め大胆に伝道する人たちも起されてきたようです。方や愛によって、方や不純な動機から。けれども、「もうそれがなんであろう」。畏れるものは多くないのです。



2019年6月23日

「できないけれど、できる」

田口祐子神学生

 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。    <フィリピの信徒への手紙 2章1-11節>

聖書に〜しなさいと書かれていることは人間には不可能なことばかりです。 隣の人を自分のように愛せ、敵を愛せ、、できません。でもできる方法があります。それはイエス様にわたしたちの内に入っていただくことです。キリストは完全な神であり完全な人間でした。遠くからわたしたちを眺めている方ではなく、わたしたちと同じ苦しみや悲しみ、また喜びも経験された方。その方を信じたときにキリストはわたしたちの中に住んでくださいます。「キリスト・イエスのうちにあるこの思いをあなたがたの間でも抱きなさい」と聖書は言います。キリストを模範としてこの心を持つこと、すぐにはできないかもしれませんが、キリストを主と告白し、キリストに従いたいと願う人は誰でも、できるように変えられていきます。パウロの人生がキリストを知ったことで変えられたように、です。キリストの証人になるにはどうしたらいいでしょうか。ストレートに御言葉を語れる人ばかりではありません。まずは他の人から見て、この人は他の人とは違う何かがある、と知ってもらうことが始まりです。また日々の任務を忠実にこなしていくこと。職場でも学校でも、誠実に生きる。そこから始まるのではないでしょうか。キリストを宣べ伝えるにはまず教会の一致が必要、とパウロはいいます。教会の人たちの思いが一致し、他人を敬うようにしなさいと。教会にはいろいろな人がいて、気の合う人、合わない人、年齢、置かれた環境など違います。背景は違えども、同じ神を礼拝しに毎週教会に集まり、一緒に賛美します。この不思議で麗しい光景は他では見ることができません。神の国の前味です。すでに神の国は始まっていて、いまこの礼拝のとき、その国を感じることができるのです。神の国の住人として明日からの一週間も、わたしたちのうちにおられる神の力を信じ、その力に期待して過ごしたいと思わされます。



2019年6月30日

「達し得たところに従って」

犬塚 契牧師

 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。    <フィリピの信徒への手紙3章>

フィリピの教会への手紙は、ローマの獄中で書かれています。晩年の手紙の可能性があります。パウロは自分に残された時間を考えていたでしょう。裁き待つ囚人という立場とクリスチャンたちへ迫害の空気が、世から隔離された空間においてこそ、より鋭く鋭敏に迫ってきます。「我にとりて、生くるはキリストなり、死ぬるもまた益なり」(1:21文語訳)風前のいのちのハッタリでなく、振り絞られた信仰の告白でした。人はいのちの危機、その最後の時に何を考え、何を希望とし、何を大切にできるのでしょうか。今や、パウロを通して、キリスト教信仰がふるいにかけられています。果たしてキリスト信仰とは、かくも人を支えるものなのか。場も歴史を越えて、世界は固唾をのんで見守ってきました。今もまた進行形で見守っています。かつての殉教者の証ではありません。最前線のレポートに触れています。▲「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3:10-11)不思議な表現です。復活からスタートし、なお苦しみに預かり、そして復活へ向かう過程を描きます。始めもまた終わりも復活を生きています。キリスト者たちはバプテスマを受けて死にさらされたと理解しています。新しい命は主イエスと共にあるいのちです。それは、感覚や感情で受け入れることでなく、信仰で受け止める事実です。そして、なお体の復活を待ち望むのです。




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