巻頭言
2018年6月


2018年6月3日

「朽ちるべきもの、死ぬべきものの行方」

犬塚 契牧師

ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。…死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 <コリントの信徒への手紙T 15章50-58節>

死には、恐ろしいとげがあるようです。それは、死のもつ強烈な武器ともいえるでしょう。そのとげ・その武器で刺されるならば、とても無傷ではいられない、死に至るものです。死は、とげを通して、罪を見つめさせます。そして、朽ちるものが朽ちないものに着るなど、似合わないと誘います。死ぬべきものが死なないものを着るとはふさわしくないのだと突きつけます。朽ちるものの果てたる姿は、私たちの歩みに裏側にしっかりと哀しみを刻まれています。自分の内には、どんなに体裁のよい言葉を語っていたとしても、とげによって罪を刺されるならば、言い逃れできないことを思っています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)とは、パウロの引用でもなく、私の内なる嗚咽です。しかし、だからもう一度Tコリント15勝を確認します。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」神は死を勝利させたままで済ましませんでした。神が復活させたイエスキリストを通して、私たちは勝利を賜るのです。イエスキリストの血による代価によって、死のとげ、死の武器、罪はその効力を失いました。罪は、私たちを殺すことはできない。死は死んだのです。



2018年6月10日

「心に書かれて」

犬塚 契牧師

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。 <コリントの信徒への手紙U 2章14-3章6節>

文字とは律法主義、霊とは主イエスが約束された聖霊と理解しています。(わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。ヨハネ14章)。律法主義は、その正しさをもって、汲々と人を追い詰め、逃げ場は奪われ、いのちはすり減っていきます。こんなにも息が詰まりそうなのは、文字の地を生きているからだと思います。日常はその犠牲で溢れ、明日は我が身であり、恵みの調べを聞くことは稀です。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書31章33-34節)旧約聖書のエレミヤは主イエスによって結ばれる新しい契約をその誕生の600年前に預言していました。主イエスは、誕生と生涯と十字架と復活から、新しい神のことばを告げています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。Tヨハネ4章16-17節



2018年6月17日

「でも、漏れるのです」

犬塚 契牧師

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 <コリントの信徒への手紙U 4章1-15節 >

石牟礼道子さんの追悼特集で、25年前の文章を目にしました。テレビに映ったアイヌ女性の神を招く手つきの美しさに魅せられたとありました。そして、「改めて、病としての文明が、わたしたちの感性を覆っているのに思いあたります。妙な色の、鱗のようなそれを、脱ぎ捨てたい願望と共に。…風土の神々や感性の安らぐところを自ら封じこめてきた時代に追い詰められたあげく、近頃わたしは、舗装された地面を割って芽吹いている蓬や葦を見つけて歩きます」と続きます。神を招く舞を持ってはいませんが、クリスチャンの礼拝の所作、振る舞いは、地面を割るヨモギや葦以上に神の国のメッセージをなぞっていればと願います。100年前、急速に奪われていくアイヌ文化を残すべく、文字持たぬ民族の歌をローマ字に残し、日本語に訳したのは、一人のアイヌ人少女、知里幸恵でした。もともと病弱であった彼女は、「アイヌ神謡集」を書き上げた夜に19歳で亡くなりますが、彼女にはキリスト教信仰がありました。厳しくも豊かな自然に生かされるいのちの源に聞くアイヌの祈りとキリスト信仰は、彼女には分けられない存在の確信だったように思えます。パウロだったらそんな感覚を理解したでしょうか。日々、どんな命のかけらにも死が触れています。最も幸福な瞬間に悲哀の色が滲み、大きな満足に限界の影を見ます。死がほんの少しでも触れていないものはないということが身に染みて知らされます。そして、主イエスの命に触れます。



2018年6月24日

「再臨の日に」

犬塚 修牧師

パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。 <テサロニケの信徒への手紙U 1章1-10節>

「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現する」(7節) 人生には突然、厄介な問題や、予期していなかった苦しみが襲ってくる時がある。その時、私達の反応は二つに別れる。第一は天を恨み、神に対して怒りに燃え、不信仰の者となる事である。私達日本人はこのケースが多い気がする。第二は、そんな最悪の時にも、神は遠大なご計画をもたれ、万事を益(善)に変えて下さると信じる事である。苦しみに打ち勝つ道は、目に見える世界を超えた永遠者に目を注ぐ事である。これが再臨信仰である。パウロはこの信仰に立って生き抜いた。悲しみ、諦め、怒り、絶望の道ではなく、全能の神に、自分の人生を明け渡す道である。▼二つの目……片目は現実をありのままにとらえ、観察する目。もう一つの目は、現実の先にある主の再臨の日を見つめる信仰の目、即ち霊的な目である。この二つが必要である。しかし、大概、前者だけで見ている事が多い。もし、私達が片目で物事を見るだけならば、必ず道に迷う。人生には何としても、両眼が必要なのである。実社会には理不尽、矛盾、不条理が幅を利かせている感がする。しかし、「神は正しい事を行われる」(6節)。天地創造の神は悪を断罪し、裁きを下される。ゆえに、黙々と、将来に希望を抱いて、主に従う事である。不従順の結果は絶望と滅びである、従順の結果は希望と永遠の命である。たとえ、とんなに苦しくても、愚直なまでに、主の命令に従う事をやめてはならない。その道には、恵みが滴っているのだから。決して自分勝手な都合や言い訳で、主の命令を軽んじたり、無関心であってはならない。それは危い選択である。▼休息をもって…苦しみを受けたあなたがたには、私達と共に休息をもって報われる」(7節) 「休息」は「ゆるめる、力を抜く」の意味である。焦り、ストレス、緊張感は再臨信仰からは生まれない。自分の弱さを認め、ゆっくりと休もう。日々が辛くても、落胆せず、再臨に向かって、ゆったりと主のみ前に歩みましょう。着実に一歩一歩づつ、時々、休息しながら、主が示された人生の山を登って行きましょう。




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