巻頭言
2017年6月


2017年6月4日

「キリストの憐れみを待ち望みなさい」

犬塚 修牧師

「あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」 <ユダの手紙20節>

「聖なる信仰」は「神専用の信仰」 の事である。これが神が最も喜ばれる信仰である。私たちの人生にとって、一番大切なものはイエス・キリストへの信仰である。大切なものがいろいろある事は、すばらしい事だが、「最も聖なる」となると、神以外にない。これが明確である人の生き方は、力強く、たくましい。その人はいかなる試練が襲ってきても、信仰が揺り動かされない。しかし、これが不確かであると、生き方が不安定になってしまう。主から心が離れると、、大変な失敗を繰り返す恐れも生じる。例えば、自分はこの方向に進みたいと念願しており、誰もが、これこそが幸せの道と言ってくれる。自分もそう確信している。だが、主に問うた時、別の道があると諭され、その道から離れる事を示された時、私たちは苦しむであろう。その時は人生の危機、また信仰の危機である。恐れや不安のため、主の命令から遠ざかり、自分の思うがままに生きる事は、安全な生き方となるだろうか。逆に、その先には苦悩が待っている事が多い。自分の思いを変える事は、辛く悲しい事であるが、その先には、祝福が待っている。私たちの幸せとは、いかに自己実現しているかではなくて、主のみ心が実現していく事である。▼また、「神専用の信仰」とは、自分が驚くほど、深く神に愛されている事を確信する信仰である。私たちは自分専用の湯飲み茶碗やパジャマのようなものを持っているだろう。それがないと、心に落ち着かないので、いつも重宝する。神にとっては、キリスト信仰に忠実に生きる人は、そのような存在である。その人は神の身近に生かされる。レオナルド・ダ・ピンチは52才頃から「モナ・リザ」の絵を描き始め、死ぬ時まで、自分のそばから離さなかったと言われている。そればかりか、死ぬまでの16年間、少しづつ絵に筆を入れ続けたという。その絵は彼の命そのものであった。主にとっては、信じる者がこんなに尊い存在であると、私たちは気付いていない感がする。もし、自分が「神専用の存在」という真理が、少しづつ分かったならば、生き方は変わる。自分を嫌になったり、自信を失ったりしない。また逆に人を裁いたり、罵ったりできない。それが神を悲しませる事を知っているからである。▼さらに「主の憐みを待ち望む」事である。主の支配を確信して、待つ事はとても大切である。危機的な時には「自分の力でが何とかしないとだめだ」と思い込ったり、焦ってはならない。「サムエルの到来をひたすら待て」と言われていたサウルは待てず、大きな罪を犯してしまった。彼のように自分の思い通りにする事が正しいとは言えない。自分の偏った思いや、み心からそれた心の「枠組み」を取り壊して、歩みたいものである。


2017年6月11日

「神の憐れみによって」

犬塚 契牧師

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。  <ローマの信徒への手紙 12章>

恐らくその年の年間聖句だったのだと思います。「あなたがたの体を生きた聖なる供え物としてささげなさい」(口語訳)幼い時に礼拝堂に掛けられていたこの聖書の言葉が、実に生々しく恐ろしくも感じたものでした。改めて読み直してみます。12章は、ローマの信徒への手紙1-1T章(救いの恵み)までと13-16章(キリスト者の倫理)を繋いでいる章です。その冒頭「こういうわけで…」。それは11章の異邦人・ユダヤ人を凌駕して愛する神の「秘められた計画」のことか、あるいは、キリストに接ぎ木された一人ひとりのことか、それとも11章までに示された計り知れぬ恵みのことか…。恐らくはどれも正しいのでしょう。大切なことは、「こういうわけで…」のわけは、私たちの如何にあるのでなく、神様側にあるということです。一方的に神の恵みと見守りの中にあるがゆえに、聖なる生けるいけにえとしてささげられ得るということです。献げるにふさわしいかを自分に見出そうとし、ふさわしく整え、準備が出来た後のこととするならば、きっといつまでも礼拝とはならないでしょう。「こういうわけで…」のわけは、神が主イエスキリストを通してもっておられます。主イエス・キリストの十字架での贖いを証拠として、生きたいけにえ・生身として、礼拝を続けることに招かれています。▲生きた供え物は、意外とやっかいなものだと思います。ふて腐れ、疲れやすく、臆病で、乾物のように置かれたままでもない…。しかし、生きたままのいけにえこそが神の望まれることだと知る時に、生きているが故の痛みと弱さと渇きは、ほかでもない礼拝の場所となり得るし、そこでしか歌えない賛美と読めない言葉と聞こえない声があるのだと知るのです。



2017年6月18日

「神のおられる風景」

犬塚 契牧師

そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。   <マルコによる福音書 8章1−10節>  

5000人の人々と共に食事をしたシーンは6章に出てきます。マルコは8章には、4000人の食事の風景を描きます。マルコだけが2度、大勢の給食の記事を残しました。記事の重複か2度起きたことなのか、聖書を調べる人たちの間でも意見が分かれています。ユダヤ人が多かった6章に比べ、8章では異邦人の地域でも給食が行われたことに大きな意味を見出すことも可能です。やがて、パンではなくご自身が裂かれ、与えられたイエスキリストへと一連の繋がり示していると言われます。言われているだけでなく、きっとその通りなのでしょう。私もそう受け取っています。ユダヤ人から異邦人へ、そして、すべての人々へ与えられる福音の広がりがあります。しかし、この日に起きたことは、先を見越したデモンストレーションではなく、その場に必要なしるしであったことと覚えたいと思います。8章は、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」とのイエスキリストの言葉から奇跡が始まりますが、いつでもパンを降らせる隠し玉があってのきっかけではありません。主イエスは、そこに、お弁当を家に忘れてきた群衆たちを見たのでなく、明日の食べ物が保証されていない極貧の中で心も体も飢え乾いた人たちを見ました。その視点は、高いところから下々を眺めるような憐みでなく、共に底を這うように生きるイエスキリストの眺めです。そして、神に感謝して祈るのです。祈り終えて語ったであろう「さぁ、食べよう」とは「さぁ、生きよう」との励ましと全く同じに聞こえます。7つしかないパンを神に感謝しながら裂き、分けようとされた主イエスキリストご自身が奇跡に思えます。飽食の国に生きる者がとうに忘れた命のありかと有り方をこの出来事は教えてくれます。貧しさの中にある者の横で、主イエスが感謝をもって祈っておられる風景が私たちの「生きる」を底から支えます。



2017年6月25日

「天国とからし種」

犬塚 契牧師

「天の国はからし種に似ている。人がこれを畑に蒔けば、どんな種よりも小さいが成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、枝に巣を作る度のの木になる」 <マタイによる福音書13章31〜32節>  

「天国」は「神の支配」の意味である。神の壮大で深遠な愛による恵みの治世を表している。これは人智では計り知れないものである。この天国が、植物の種の 中で最も小さい「からし種」にたとえられている。神の偉大なみ業はごく小さな出来事にも示されるのである。からし種は極小であっても、大きく成長する爆 発的な生命力を宿している。これを畑に蒔くと、野菜であるにもかかわらず、 一年間で、3〜5mの巨木になる。神にあっては命あるものは必ず成長する。▼からし種の信仰ーーー(ルカ17章参照)、弟子たちは人から受けた屈辱や罪を中々赦せない問題を抱えていた。そこで、主に「私達はもっと強く、人を赦せるほどの大きな信仰が欲しいのです。どうか信仰を増して下さい」と願っている。それに対して、主は「小さなからし種の信仰を持ちなさい」と答えられた。その姿勢は「忠実な 僕」としての生き方であった。「ある僕が野良仕事をして、帰宅した後も、主人のために、夕食の用意をしなさい、その後も『私はふつつかな僕べです。なす べきことをしたにすぎません』と言いなさい」と命じられた。▼黙々と主に従って生きるーーーしもべは主人から何の感謝の言葉を受けていない。愚かな僕であれば、ぶつぶつ不平や愚痴を 言うかもしれないか゛、この僕は、いかに主人に愛され、大事にされているかを、良く知っていたので、何も誉められなくても、十分に満足していた。この僕と主人の深い信頼関係に心打たれる。私達も主イエスとこのような関係でありたい。時々、悲しい事があったとしても、僕は主イエスの愛の深遠さを知っているので、信頼感は少しも変わらない。その黙々とした真摯な応答の中で、すばらしいみ業が展開していくのである。▼逆に、もし、私達が人からの良い反応、高い評価、大なる感謝を求めて生きると、生 き方は、悩みが多く、また乱れ、不安と恐れにとりつかれる。自分が望んだようには、相手が動かない事にイライラして、怒り出す。これは僕としての生き 方ではなく、強欲な主人の立場であり、暴君、支配者である。からし種の信仰とは、人からの見返りを求めず、神のみから報いと助けを求めて生きることであ る。そのためにも、自分のからし種を人の畑に蒔いてはならない。そうすると、人から報酬を期待する生き方となってしまう。それは、人間に依存する窮屈な生き方となる。これは人の奴隷にもなり、最後は「人間教、偶像教」となる危険性もある。神から与えられたからし種は神の畑に蒔く事である。即ち、神に任せてしまうのである。悩みや問題を人によって表面的に解決するのではなく、主イエスによって根本的に解決することである。




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