巻頭言
2015年6月


2015年6月7日

「イエスの家族」

犬塚 契牧師

 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 <マルコによる福音書3章31-35節>

 時の権威、わざわざエルサレムから来た律法学者たちが、イエスを「悪霊に取りつかれている」と言ったならば、きっとそうなのだろう…。セカンドオピニオンなど、すでに必要もなく、マリヤや兄弟が取り押さえにやってきました。病を癒したり、悪霊を追い出したり、奇跡を起こしたり…が人を躓かせたのではありません。当時は、そのことにおいては人々は素直に信じて受け入れたのだと思います。しかし、イエスはあろうことか、やすやすと律法を超えてしまったのです。触れてはならぬ汚れた人に触れ、罪人をそばに来させ、癒してはならぬ日に人を癒したのです。そして、「気が変になっている」と評されました。30歳まで共に暮らした家族も、それに同調していきました。理解を超えたところにイエスがいたからです。▲人を理解しようとする時に、自分の経験と想像力を活用し、辿ってきた歩みに類似を見つけてなんとか推し量るということをしているのだと思います。そして、その形にあわなくなるとなんだか相手が嘘を言っているように感じる傲慢さも持っています。近くで過ごした家族ならばなおさらかも知れません。しかし、神に造られたそれぞれは、なんと深く、余りに豊かで、別の存在です。故にどうしても理解し切れないその部分もまたあるものです。イエスが家族に対してとった態度は、「父と母とを敬う」ユダヤの文化を考えれば、驚きの瞬間だったと思います。しかし、人と人の間においても、神に対する畏れをいただいてはじめて人を知るのです



2015年6月14日

「この人々に」

犬塚 契牧師

 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしてい るではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産ん でしまうのです。」 <出エジプト記1章1−21節>

 「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」という控えめな描写の向こうでは、地上では王権が変わり、不安定な激動 が続いていました。異民族国家エジプトであった国では、統治者ヒクソス人が放逐され、悲願の政権を奪取したエジプト人が国粋主義に偏り、余波 がイスラエル人たちにも及びました。労働は過酷さを増し、それでも増え続けるイスラエルの民へのファラオ(エジプトの王の総称)の命令は、容 赦のないものでした。当初、事故に見せかけた密室の殺人要求を助産婦にしていましたが、後にはなりふり構わずに暗殺するようにとの命令に変わ りました。明らかなる悪法が施政者から下される時、世には不安と恐怖、やり場のない怒り、虚無感が入り混じっていたのだろうと思います。今、 共感を覚える時代の空気があります。▲出エジプトの解放の出来事は、それ以後のイスラエルの人々のみならず、信仰者たちの救いのモチーフにな りました。記念して歌い、覚えて慰められ、祝って思い出したのです。しかし、3500年 も前の出来事がなぜと思います。不思議なことです。▲名を記された助産婦たちは、この悪しき時代に嘆きをもって生きていたことでしょう。不在 に思える神へのやるせなさもあります。空気を読めばファラオの命令に従ったほうがはるかに自分の身も身内の身も安全です。抑圧も要求も激しさ を増します。そして、神不在の今、ファラオの側につく以外の選択肢は、もはや無謀にも感じます。しかし、抗って生ましめるのです。抗って生 き、抗って生かすのです。自分の目の黒い内に時代は変わるだろうか、それは知らない。それでも、神は生きて、知られる神だと信頼をしたのだと 思います。そんな信頼の繰り返しを信仰生活を呼ぶのでしょう。



2015年6月21日

「繕われる神」

犬塚 契牧師

 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。             <創世記20章7-8節>

 約束の長男イサク誕生を次章にしてのアブラハムの失態。かつて12章で美しい妻ゆえに命狙われるを恐れて、エジプトのファラオの王宮に妻を差し出した記事がありました。この20章は、同じ出来事を書いた重複でしょうか、それとも同じ罪を犯したのでしょうか。祝福の階段を一歩ずつ歩んできたアブラハムが、ここまで来てまたもや・・・です。▲不思議なのは、神ご自身はアブラハムに何も語られないということです。夢に現れ、罪が示されたのはアビメレクのほうであって、アブラハムには沈黙をしています。それどころか、アビメレクの王宮の女性たちの不調のために祈ってもらうようにと言われます。「彼は預言者だから、あなたのために祈り…」。アビメレクには、あまりに理不尽に思えたことでしょう。果たして祈る資格が、妻サラを妹と偽ったこのアブラハムにあるのだろうか思ったことでしょう。彼にこの策謀の理由を問えば、「この土地には神を畏れることがまったくない」言うが、あなたはどうなのだ、あなたは神を畏れているのかと思ったことでしょう。▲祈る資格、生きる資格、愛する資格、愛される資格、然る資格、話す資格、正す資格、立つ資格、休む資格、笑う資格、楽しむ資格、共感する資格…があるのだろうか。常々に自問があります。だいたい問い始めるのは疑いがあるからで、答えは「ない」へと傾いています。自分を傷つける、そして、勢い余って人を傷つけるよく切れる問い言葉です。しまっておきましょう。▲アブラハムに祈る資格があったとは思いません。相応しくない招きだと本人も周りも認識したでしょう。法外な神の招きを思います。正しさ、美しさ、清さへの求めと共に救いを求める以外にない姿を晒して歩みがあります。



2015年6月28日

「繕われる神」

犬塚 修牧師

 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し……」<ローマの信徒への手紙12章9〜10節>

 当時のローマは世界の覇者として君臨し、弱小国に苦しみを与える恐るべき軍事大国であった。彼らは傲慢であり、ユダヤ人を蔑み、人権を顧みる事がなかった。強大な権力で人々を圧迫し、生存に必要な最低限の権利も奪い取った。パウロはこのようなローマの「力の支配」原理を否定し、「愛をもって仕えて生きる」信仰の道を示している。▲「偽り」は「演技の愛」である。真実に愛しているのではなく、愛のポーズをしているだけである。「悪を 憎む」は、蛇を忌み嫌うように、「必死で悪を避ける」という強い意味を持つ。悪(原意では、「思い煩いから来るもの」の意味)は麻薬のように、弱い私達の心身を侵食してしまう怖さがある。「善から離れず」は、「善」には「にかわ」で固められるかのように親しむ事である。この「善」は主のみ心に従う事と言えよう。▲「愛に生きる」事は、人間的な努力だけでは不可能である。肉の力には限界がある。愛は神から来るので、熱心に神に求める事が肝要である。▲人間の愛はエロスの面が多い。これは「価値あるものを愛する自然的、本能的な愛」であり、生きるために必要ではあるが、反面、 愛する相手の価値ある賜物や魅力が失われたならば、愛はすぐに消え去るという自己中心的で不安定な愛でもある。一方、聖書に記されている数多くの愛はアガペである。これは「無価値な者を無条件に愛する天的な神の愛」である。この十字架の愛によって、私達の心は甦り、再生されていく。▲「燃える炭火を彼の頭に積む」(21節)とは「敵に対しての復讐」を意味しない。むしろその逆である。ペトロはイエスを三度も裏切った後、官邸でたき火を囲み、炭火に当たっていた。故に、彼にとって炭火は自分を厳しく責める罰、絶望、自己卑下の要因であり、正にトラウマと言える。ペトロを癒すため、主は燃える炭火を起こし、魚を焼いて朝の食事に招かれた。「さあ、来て朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)「さあ」はペトロに対する最初の招きの言葉である。(マタイ4:19参照) 当時のペトロは意気盛んな肉の人であった。だが今、彼は自分の罪と弱さに打ちのめされ、砕かれた土の器と変えられた。これが、第二の召命となった。彼の深 い罪意識を取り除かれた。彼の罪は燃えて灰となり、炭火で焼かれた魚は美味しい糧となった。彼は心身ともに癒され、力強く新しく生きる道を進んでいった。




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