巻頭言
2014年6月


2014年6月1日

「祝福の源」

犬塚 契牧師

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。       創世記12章1−9節

 心に特別な痛みを持った女性が、本当に恵まれた今の職場において、みんなの親切に触れると嬉しいのだけれども、不安も一緒に覚えると話されるのを聞きました。かつてのつらかった自分を置き去りにしているのではないかと。そして、同じ心での連帯をもって、被災地の痛みを眺めておられました。早々に切られてはならぬものがあるように思いました。個々人の歴史におけるつながりとか、そこに見える祝福とか…思います。▲創世記12章。どういうわけか世界に散らされている人々の中から、後に「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを神は選んで、彼とその一族をモデルとされました。「この人たちを見ると神が見える」と言われるようなモデルです。12章は、その最初のシーンで、神がアブラハムを呼ばれた(召命)ことが書かれています。「行先も知らずに」信仰だけで旅立ったということで、ヘブライ11章では信仰の偉人に数えられていたりもします。この箇所を読んで、たくさんの人が、転勤、転任、転向、転職したことだろうなぁと思って読みました。祈りの中で迫られる尊い厳粛な決断があるのだと思います。▲創世記11章から読むとカナンへの旅は、アブラハムの父テラが始めた旅だったようです。「テラは、息子アブラムと、…カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった」(11章)。文明都市ウルから商業都市ハランまでテラの家族は旅をしました。しかし、カナンを目指した旅はそこで終え、テラは死ぬまでそこにとどまることになります。テラの詳細は創世記にはありませんが、ヨシュア記24章では、テラは「他の神々を拝んでいた」とあります。月の神が、ウルでもハランでも信仰されていました。アブラハムが抱えていた黒歴史、闇歴史を見てしまった思いがします。消防士、警察官の採用には身辺調査があるようですが、どうしてアブラハムが神の身辺調査をクリアしたのか理由は分かりません。それでも、彼は彼自身が祝福の基になるという神のことばを信じる者でした。おおよそ、ありえないことに思えたことでしょうが、人生の統合を神のお任せしたのだと思います。なぜ、毎週礼拝に集うのかと問われれば、「それが仕事だから」と答えてしまうかも知れません。それでも、きっと礼拝とは、すべてを見渡すことのできぬ様々な断片が、神の触れられるところ(カナン)において、結び合わされ、つながりをもっていくことの作業のように思うのです。ようやく神の手において意味が生まれるのです。生かされてある人生と心決めた人にある根を思います。底に吹く風を思います。



2014年6月8日

「良しが響き渡る」

犬塚 契牧師

 初めに、神は天地を創造された。     創世記1章1節

 小学生に入学してまもなく、図工の時間のお絵かきは、いつも地面と太陽を書くところから始めました。画用紙の下4分の1くらいに直線を描き、右の上に太陽を書きました。草が生え、花が咲き、人をのせました。幼いころ画用紙に描けた天地とは、小さなものだったなぁと思い出します。古代人たちの天地とは、どんなものだったのでしょう。宇宙に望遠鏡を浮かべることができたわけでもありません。まさか動く球体に乗っているとは思わなかったでしょう。宇宙の知識は、現代の小学校の理科の教科書に遠く届きません。それでも、創世記の1章1節。「初めに、神は天地を創造された」。神の造られた「天地」に、信仰者自身とあらゆる存在のすべてを入れ込んで、神のもとに置き、言葉に表せぬ驚きと感謝をもって、記されていったのだと思います。創世記は、宇宙のレシピではなく、礼拝者の驚嘆です。古代の宗教にあった「創世」の物語は、まるで今の人間社会と相違ないものでした。神々が神を産み、長い争いを経て、混沌を通り、世界はようやく出来上がっていくのです。あらゆるものを材料とし、天地の創造はなされていくのです。しかし、完結に明確に聖書は語ります。「初めに、神は天地を創造された」。神を表す”エロヒーム”は複数形でありながら、それを受ける動詞は単数形で書かれています。それは多く神々を意味しません。「威厳の複数形」と呼ばれるものです。唯一の神ご自身が、その威厳をもって始められた畏れある働きの最初がふさわしい表現で宣言されています。それが「初め」られたのです。▲私は次男でしたから長男の苦悩を知りませんでした。長男が生まれて、彼が経験する初めての入浴、トイレ、入園、出会い、卒園…をどんな気持ちと緊張でクリアしていったのかを見ました。リスクがあることです。勇気と愛が必要なことです。聖書の「初め」とは、ただの「はじまり、はじまり〜」の合図ではありません。神の愛のはじまりが、聖書の最初のひとことです。



2014年6月15日

「神に似たもの」

犬塚 契牧師

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」  創世記1章26節

 順調な時、ものごとが自分の願い通りに進んでいるときは、ほとんど問題は感じないものです。失ってみてはじめて…とは、よく言われることです。それでも、関係が壊れたり、予定が変わったり、信頼が薄れたり、できることが減ったりの中で、ついに生きることの意味、存在の重さと、喪失の価値などがふたたび問われはじめるのです。いったい何が大事であり、永遠に照らして残るものであるのか…と。創世記の1章26節。人が創造される場面があります。書かれているのは、地球の作り方のレシピではありません。実験室での「天地創造」の研究ノートでもありません。読むべきは、どんなにか愛をもって人を創造されたのかという神の息づかいです。そして、知らされるべきは、その息づかいの内を生きる私たち自身の存在のどれほどと支えられる神の御業の大きさです。26節に至るまでの5日間、草が生え、海に魚が群れ、空に鳥が飛び立ち、動物たちが動き始めました。すべては神の命じられた通りになりました。神の命令によってなったのです。そして、いっさいが整って、いよいよという人の創造があります。新改訳聖書は、神の待ち焦がれた思いを「さあ人を造ろう」訳し、わざわざ「さあ」を補って表現しようとしています。神は命令で人を造られたのではありません。「種類ごと」にまとめて生産したのでもありません。ご自分にかたどり、似せて造られました。神のかたどりとはなんでしょうか、似せてとはなんでしょうか。自分が神に似ていると鏡をみて思えたことはありません。どんなにしみじみとそれを眺めて見てもです。それでも、出来事ひとつひとつを神に尋ね、考え、なぜなのだろうと問い、祈りながらも、信仰者と神との間に見えて、出来上がってくるものの内に、感謝なる神に似せて作られた神のかたどりがあるように思えます。



2014年6月22日

「必ず答えて下さる神」

犬塚 修牧師

 「苦難が襲う時、わたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えて下さるでしょう」(7節) 詩編86:1〜10

 敵との戦いに明け暮れたイスラエルの王ダビデは祈る以外に道はなかった。祈りを忘れたならば敗北を喫すると直感していた。敵の力は強大で、自力では太刀打ちできない事も承知していたのである。祈りは彼の生きる唯一の道であり、これに命を懸けていた。全能の神に訴え、その答えを得て生きた人であった。ここでも「私は貧しく身を屈めています」とある。様々な難問題で苦しみ、心労も激しく、精神的に追いつめられていたダビデは「主よ、憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶ私を」と一日中、祈り続けたのである。「私の魂が慕うのは主よ、あなたなのです」の「慕う」は「心を上に待ち上げる」の意味である。主に向かって魂を引き上げる行為が「慕う」姿である。▲創世記22章に、大きな試練に悩む「信仰の父」アブラハムが登場する。主は愛するひとり子イサクを焼き尽くす献げものとしてささげるように命じられた。それは到底、承服できる事ではなかった。イサクは唯一の後継者としての約束の子であったからだ。「この子をささげれば主の約束は無に帰してしまうではないか………。なぜこんな命令が下されたのか」疑問のまま、示された山に向かった道中で、彼は一つの結論に導かれた。それはイサクは復活するという確信であった。そしてアブラハムが、刃物を刺す寸前で、主は「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ」(12節)と答えられた。そしてイサクの身代わりに茂みにいた一匹の雄羊が捧げられた。この羊は私達の為にあがないとなられたイエス・キリストの予表であった。▲ヘブライ書11:17〜19にアブラハムの心が解き明かされている。これによると「復活」は「生き返らされ続ける」事であり、死後にとどまらず、生きている今、日々復活していくという現在形となっている。又「彼はイサクを返してもらいました」(19節)とある。この復活を自分の人生と重ねて見る必要がある。「自分は大切なものを失ってしまった。もう取り返しがつかない。」と呆然となり、絶望し、苦悩し続ける事はない。過去の苦い出来事も、決して失ったままではなく、主は必ず大きな祝福として返して下さると信じる事ができるのである。この復活信仰に生きたいものである。



2014年6月29日

「それでも生きる」

犬塚 契牧師

 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。  創世記12章10-20節

 創世記12章は、アブラハムの召命から始まります。神様が世界に散る数多の人々の中からアブラハムを選び、神に聞く信仰者のモデルとして立たせられました。神は言われました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」…アブラハムは旅立ちました。きっと期待したと思います。誰も知らない、誰も足を踏みいれたこともない夢のような秘境をです。水が流れ、肥沃な土地が広大に広がり、神を賛美しやすいその場をです。しかし、12章はそっと記しています。「当時、その地方にはカナン人が住んでいた。」…アブラハムは、立派だなぁと思います。そこで腹を決めたようにカナン地方の中央にあったシケムで祭壇を作り神を礼拝しました。しかし、その後はベテル(神の家)とアイ(廃墟)の間に移り再び祭壇を設け、やがてネゲブ地方(乾燥した)に向かうことになります。遊牧の民ですから、移動もあるでしょう。不思議ではないことかも知れません。しかし、飢饉によるエジプト移住と「サラ事件」に至るまでの、アブラハムの旅程を追ってみると彼の内に少しずつ堅くなっていった心のことを思うのです。自分のいのち惜しさに美しい妻サラをエジプトのファラオのハーレムに入れることをよしとするようなことがどうして召命の12章の後半に登場するのでしょう。「やはり、自分の身は自分で守るのだ」という輪郭が、現実の出来事の中で”祝福の源”アブラハムにしても固まっていったのではと思えるのです。▲私自身も振り返ると事あるごとの祈りや決断の跡を思い起こします。講師から招かれて講壇の前に出て行ったこともその場で立ったことも、手を挙げて神に意思表示したことも一度や二度ではありません。小さな祭壇と呼ぶことは許されるでしょうか。それでも、いつの間にか「やはり…」の輪郭が深く掘られて動けなくなってしまうことがあります。しかし、アブラハムを神は見捨てられませんでした。12章後半の驚くばかりの醜聞で、罰せられたのはエジプトでした。神はアブラハムに語りません。その不信をも責められませんでした。ただご自分の家にもう一度戻るように働かれたのです。私たちに払われたキリストの犠牲と変わりなき祝福を思い出したいと願います。本当にそれは変わらないものなのだと。





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