巻頭言
2013年6月


2013年6月02日

「人が人として、神が神として」

犬塚 契

 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。  箴言30章7-9節

 箴言の30章は、「ヤケの子アグル」の言葉とある。誰だろう?ここ以外に記述がないので、不明な人物である。それでも書き方の謙虚から、ばったりと駅であったなら、一緒にベンチに座って電車を待てそうな雰囲気を感じる。しかし、随分な疲労がアグルにある。1-2節「・・・神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。」彼は自分の分別のなさに嘆き、粗野に生きる自分を見せられている。だからこそ、神を求め、知ることを願い、知恵を得たかった。きっと多くの人が願うことなのだと思う。「もう少し知恵があったらなぁ」と。「もっと頭よく、知識豊富で、冷静沈着、何事にも対処できて・・・」と。アグルは、最初に告白する。3節「知恵を教えられたこともなく/聖なる方を知ることもできない。」▲・・・で、アグルは二つのことを主に願った。嘘付く生き方でないことと貧しくなく富みもせずに生きていくこと。彼が知らされている彼の弱いポイントだったのかもしれない。なんだか自らの歩みを振り返ると「疲れ果て」から、「二つの懇願」までが重なる。▲イエスキリストは言われた。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。明日の分まで悩む。一週間分、一年分、一生分、悩む。そんなことがあるだろうか。それでもせめて今日一日を心一杯神のものとする。礼拝の日とする。そう願う知恵を授かりたい。困惑のアグルがシンプルに願ったように。「・・・私たちは成功するように召されたのではなく、起こりくるもんだいに取り組むたびに、神に従う道を今日も明日も選び続けるようにめされているのである。」ポール・マーシャル



2013年6月09日

「生まれる前に立てられた」

犬塚 契

 主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。・・・見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊しあるいは建て、植えるために。」 エレミヤ書1章

 涙の預言者エレミヤの召命。ダビデ王、ソロモンの後、二つに分かれたイスラエル。北イスラエルはすでに滅ぼされ、南ユダもまたバビロンに捕囚されるまでの悲しい時代にエレミヤは召命を受けた。喜びの時代の善きニュースなら喜んで伝えられるものを、彼が神から預かった言葉は、耳障りのよいものではなかった。神と民衆との板ばさみの中で、彼は孤独を歩み、涙をもって日を過ごした。神のお心を知らされながら生きるとは、人知超えるその悲しみの深さをも共に味わい言葉にすることなのだとエレミヤの姿に思う。なんだか安々と「主よ、み心を教えてください」と祈れなくなる。▲エレミヤの召命とは、ある日の突然の出来事というよりも、神の繰り返しの導きでの、決断の証しなのだろう。エレミヤ書の1章が、一日ですべてが起こったと考える必要はなく、分かれた段落以上に様々な日々の取り扱いの中で、結局は彼が神の”圧倒”の運びの中を生きたことが、そのまま生身のメッセージだったのだと思う。▲「抜き、壊し、滅ぼし、破壊しあるいは建て、植えるために」とは、エレミヤ書の大切なテーマである。裁きなる滅亡の真っ只中にありながら、新しい創造をも興される神の働きの壮大をみる。抜かれるは何か、壊されるべきは何か、滅ばされて然りは何か・・・。そこに新しく建てられ、植えられる導きもあるのだ。ならば、抜かれるも良し、壊されて良しか、「母の胎から生まれる前に」との神からの圧倒を日々に強くしていただく歩みがあるなら、植えられてまた歩みたい。



2013年6月16日

「知っているよ。」

犬塚 契

 主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。…わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」 創世記31章

 創世記31章は、ヤコブはいよいよ伯父ラバンのもとを去る時のことが記されている。近隣におられてお世話になった牧師が、かつて自分の去就について、「自分が考える理由以外の理由がないと…」と話されたことを思い出す。ヤコブもむかし一度ラバンにふるさとに帰ることを申し出てたことがある。そのときは叶わなかった。今は「主はヤコブに言われた」という「自分が考える理由以外…」によって、ヤコブは妻の説得を試みる。従うは「わたしの父の神」か「あなたたちの父」か。愛されたラケルだけでなく、疎んじられていたレアにもその説得は及ぶ。ラケルもレアも家族であり、祝福の内にある。そして、二人ともヤコブに従うことを選んだ。▲ヤコブへの神の語りかけ、祝福を数えることのできた目、妻たちへの伝道と迫り、そしてそれに従うという妻たちの応答…。それら一切の心強い後押しを受けて、ヤコブは…夜逃げした。「すべての財産を持って逃げ出し」た。逃げ方は長年に培ったラバンに対する知恵かも知れない。それでも、変わりなきは「ベテルの神」である主の語りかけである。ベテルでの出会いから20年の月日、ヤコブが自分自身の神として信じはじめた時から、神ご自身は片時も忘れられず歩みを支えられたのだ。そのよい時も悪い時も病める時も健やかなる時も…。「すべてわたしには分かっている」といわれる神と再び出会うのである。「ほら忘れたのかい、ベテルの日を!」いわんばかりに響くみ声のやさしさを。▲「母の手を握りながらなら、どんなに暗い夜道も怖くはない」と先週参加のシンポジウムに聞いたことを思い出した。



2013年6月23日

「すべてのものは神から出て…」

犬塚 修

 「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているです」 ローマ11章33〜36節

 松本清張の名作に「点と線」があるが、この中で物の見方が「点」だけで見ると、見えなかったものが、「線」として考え直すと、次第に真実が明らかになるという事を教えられる。ローマ書を読むと、パウロもまた自らが苦悩していた問題の解決の糸口を「点から線」の視点でとらえ直す事で見出したと確信する。パウロにとっての苦悩は同国人イスラエルの心の頑固さ、不遜さにあった。聖書の民として特別な恵みを神から与えられた同胞が救い主イエス・キリストに対して心を閉ざし、救いをどうしても受け入れようとしないという悲しい現実を見て、パウロは絶望し、落胆した。彼は長年「なぜ?」という疑問が消えなかった。私たちの場合もどんなに熱心に祈っていても、少しも現実が変わらないと、心が疲れ果て、生きる希望が削ぎ落とされてしまう事はないだろうか。その深い悲しみに対して、ついに神の啓示が与えられ、パウロは真理を悟り、11:36のみ言葉を力強く宣言した。ここには、万事は神から発し、神によって成り、神に帰するという深遠な神の永遠に至る遠大な歴史支配が語られている。私たちはどうしても、目先の利益に心が奪われ、近視眼的にものをとらえやすい。それは「点」的見方であり、ご利益的、衝動的、現世的となる。その結果、「国家百年の大計」を失い、目先の事で一喜一憂してしまう。もし、すべての出来事を「線的に」に洞察するならば、今の状況がいかに最悪であっても、決して絶望せず、その暗黒の中にも神のみ手が臨んでいる事を信じ、忍耐強く戦い抜くことが可能となる。私たちはこの世の非人道的また暴力的支配に過剰な恐れを抱き、果敢に抵抗し、戦う気力を失う危険性がある。つまり、「神の力」でなく、「サタンのような勢力や人間の力」の奴隷になり、洗脳される恐れもある。しかし、神以外に恐れるものはない。悪魔は神の前に無力である。必ず救いの門はある。自分とって辛い結果と思える事があっても、主に祈り、道を探すならば、主は共にいて、豊かな救いの道を示されるであろう。私たちは悪との戦いにおいては決して諦めてはならない。



2013年6月30日

「福音の初め」

犬塚 契

 神の子イエス・キリストの福音の初め。 マルコ1章1節

 はじめ、はじまり、スタート・・・。新生活、新入学、新婚生活、新しく始めることにはワクワク感がある。マルコが福音書を書き出した時にもまたワクワク感があったことだと思う。是非、わけてもらいたい。▲日本語に訳された1節の単語を逆から並べるとギリシャ語原典の順番になるようで、もともとは、「初め」「福音」「イエスキリスト」「神の子」と続く。最初に耳に聞こえる単語のインパクトを考える。まず「初め」があり、その次にすぐ「福音」がはいってくる。「福音」とはエウアンゲリオン(エウ=良い アンゲリオン=知らせ)である。やたらに聞く言葉でなく、戦いに勝利した知らせか、皇帝の世継の誕生の時に使われる言葉だった。香水がシュッと部屋にまかれるとき、一瞬にして空気が変わるように、直接の聴衆は、「初め」と聞いて、続いて「福音」と聞いて、どんな感じがしたことだろう。いろんな匂いと色が混じったかも知れない。良い香りのイメージも濁った色の絵も浮かんだことだと思う。マルコは続ける。「イエスキリスト、神の子」。▲マルコにとって、エウアンゲリオン(良い知らせ・福音)とは、イエスキリストの出来事であった。世界でも裕福な国の一つに暮らしている。手を伸ばせば必要なものが届き、人々は自由な選択の中で、職を選び、スキルを磨き、自分が生きる生きがいとは何かをいつも捜し求める。その中で、「都合が」よい知らせを歓迎することに慣れてしまった。しかし、真に必要としている「よき知らせ」とは何だろうか。財布が喜ぶ知らせでもなく、一時で消える知らせでもなく、明日には変わる知らせでもなく、与えられた命、生きてきた歴史、受けてきた出来事・・・存在そのものが聴く、存在をかけた「よき知らせ」とはなんだろうか。そんなことをマルコの書き出しから問われる。「初め、福音、イエスキリスト、神の子」。ここに、「神の子イエスキリスト」という良い知らせの宣言が最初になされている。





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