巻頭言
2012年06月


2012年06月03日

「光の子として」

犬塚 契

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 エフェソ6:10-12

 引越し、別れ、卒業、臨終…。人が語る言葉の中でも「最後」となると殊更に重みが増す。エフェソの手紙6章10節〜。「最後に言う」との書き出しから始まる。「鎖につながれて」いるパウロの手紙、最後の言葉であるから、余計にこの言葉にはタダならぬ重さを感じる。命の保障の薄い人が何を最後に伝えるのか、残す言葉は何か。▲悪魔は、ギリシャ語でディアポロス。もともとは「引き離す、切り離す」という意味。神と人との間を引き離し、切り離そうとする働きをパウロは獄中で見ていただろうか。各地の教会の奮闘、信仰者の戦いを彼は聞いただろう。しかし、目に見えるローマや迫害者を越え、血肉をもった人間相手でなく、破壊者・告発者との戦いなのだとパウロは見ていた。悪魔はまるで自分が存在していないかのように振舞う。けれども、動物の世界でも到底見られないような残虐性を人の歴史の中に知らされる時、徹底的に破壊へと導く悪魔の存在を思う。それに対抗する武具は人にはないが、神の武具が用意されている。真理の帯・正義の胸当て・平和の福音を告げるサンダル・信仰の盾・救いの兜・霊の剣。どれもが防御である。弓も矢も槍もなく戦闘用の剣もなく、唯一武器に思うのは供え物用のナイフだけだろうか。戦いはすでにイエスキリストの勝利に終わっている。ただ悪魔の最後のあがきによる火矢を防ぐのみで十分だと。むしろ、いざとなったら平和を告げるサンダルで駆け香るのだと。▲人生思い通りに行かないものだろうか。人は弱いから自分が本来歩むべきところからずり落ちた気になる。いつ貧乏くじをひいたのか、どこから転げたのか、あのことか、このことか…。自分を責め、責めきれずに続いて人を責める。そして、神を離れて自分で切り開く歩みに望みを置こうとする。しかし、「最後に言う」。もう悪魔によっても引き裂かれる必要はないのだ。引き離されることもない。主はそこにおいても共におられる。



2012年06月10日

「畏れ多い場所で生きる」

犬塚 契

 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 (創世記28:16)
 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。 (創世記47:9 新改訳)
 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。…」 (創世記48:15)

 きっと私は「祝福」という言葉を実に便利に多用していると思う。「祝福」を日常語にしている30代は、平塚・秦野でもそう多くいないのではないかと想像する。簡単に口をついでるこの言葉に、神の計らいの重みを知らぬままの薄さも感じている。▲兄エサウの祝福を母リベカとの共謀で無理やり父イサクから奪ったヤコブの北の地への逃走が28章。昼の酷暑と夜の寒さは身も心も心細くしただろう。ヤコブにとって神とは、彼の爺さんアブラハムの神、父さんイサクの神ではあっても、自分の神ではなかった。爺さん、父さんの遺産である祝福のおこぼれで生きていたのがヤコブだった。しかし、前章での自力での祝福強奪作戦によって、逆に彼はすべてを失った。父母と家族、故郷、財産…。そんなことが苛んでの最悪の夜、神ご自身がヤコブに語られた。天と地が繋がるヤコブの梯子を夢で見る。アブラハムの神、イサクの神は、ヤコブの神でもあった。ヤコブは初めて自分と出会う神を知って、自分に対する祝福の契約の確認をするが爺さん・父さんを超えるものだった。▲それからは万事、神いらぬほどうまく運んだのではない。のちにエジプトでパロに年を聞かれて「ふしあわせ」と答えた彼の生涯が変わりなくある。しかし、彼が自分の子に「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」と祈るヤコブの姿に神の祝福の深さを思う。「まことに主がこの場所におられるのに…」という若きヤコブの感嘆に合わせる者でありたい。



2012年06月17日

「引き出しは開いて」

犬塚 契

 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 フィレモンへの手紙 15節

 3歳の子どもがプリンターのコピー機能を発見し、無駄にコピーをするものだから、“インクがもったいない”と思った。プリンタのインクは結構高いものだから…。羊皮紙とパピルス紙だった2000年前は、紙が高価なものだった。印刷して、製本して、出版して、書店に並ぶような時代でもなかった。福音書も手紙もみんな手で書き写されて、一冊一冊残されていった。その労力を思う。▲パウロのあまりに個人的な手紙であるこのフィレモンへの手紙が、なぜ聖書に組み込まれているのだろう。パウロを通してクリスチャンとなったフィレモンはきっと裕福だった。彼の家は教会として解放されるほどの広さがあり、家には奴隷がいた。その一人であったオネシモがフィレモンに損失を与えて後、逃亡した。しかし、誰の紹介か?自分で訪ねたか?分からないが、オネシモは獄中のパウロと出会いクリスチャンとなり、パウロに仕える者になった。そして、パウロは元の主人フィレモンにオネシモを赦してほしいと願い、損害は自分が支払うと書いたのが、この手紙だった。口述筆記が当時の常識なのに、この手紙は証文の意味もあってパウロ自ら筆をとった。▲この手紙をフィレモンが机にしまったままなら世に出ることはなかった。フィレモンは自分以外の人もこの手紙を読むべきだと思って公開した。囚われのオネシモの赦しを願うパウロに、イエスキリストによる赦しを得た自分の姿が重ねられたのであろう。▲この手紙で普段着のパウロが日常的に何に絡まれていたのかも知る。オネシモにはどうしようもない大金を彼は払おうとしていた。それでも上記の箇所、「逃亡」を「別れ」と理解し、起きている出来事を神の働きと受け止め、地(じ)で祈り信じた信仰者の姿を見る。きっとこんな祈りと支えこそ真に事が動く底力なのだと教えられる。



2012年06月24日

「復活の主の命令」

犬塚 修

 「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」 ヨハネによる福音書21章9節

1、 主の命令に従う…ペトロ達は夜中、ガリラヤ湖で漁をしたが、全くの不漁であった。主は夜明け頃、岸に現れ、船の右側に網を降ろすように命じられ、その通りにしたところ大漁となった。「右」とは、神の側、「左」は人間の側を示している。主の命令に従順に従う事が大切である。神のご計画を曲げ、人間の都合や条件に合わせないように自戒したい。
2、 主に従う人には祝福が待っている…漁を終えた彼らには、炭火、パン、魚が主によって準備されていた。炭火は主を裏切ったペトロの心の傷をいやすためであった。ペトロは犯した罪を思い出したであろう。彼は恥に満ちた自分の過去を見せられたが、この痛い体験から、徹底的に自分の弱さが暴露され、自己防御性が打ち砕かれた。又、この炭火は、彼の汚れと罪意識を完全に焼き尽く神の愛の炎でもあった。ペトロはプライドや野心をかなぐり捨て、主のみ前に幼子のような者になり、主のすばらしい救いを確信していく人と変えられた。
3、癒された人は主の使命に生きる者となる…主はペトロに三度にわたって「あなたは私を愛しているか」と尋ねられた。その意味はペトロに対する癒しを完全なものとするためであった。ついに彼は「すべてあなたがご存知です」と告白する。たとえ、私たちの愛が不完全なものであっても、主はそれを温かく受け入れ、他者に仕える使命(牧会)に遣わされる。最後にペトロは気になるある人について「あの人はどうなるのですか」と問う。主は「その事はあなたとは関係はない」と諭された。私達はどうしても気にかかる人について、心配し、悩み、苦しむ時があるが、すべてを主にゆだねる事が肝要である。それがイエスに従い、使命に生きる者の平安な生き方である。


TOP