巻頭言
2011年6月


2011年6月05日

「按手(式)について」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 エレミヤ1 章6 節

 このことばそのままに昨年の8 月以来過ごしています。貴重なCS の時間、按手の学びをしてくださることも感謝します。説教壇、祈り会、聖書の学び、バプテスマ準備、納骨式、結婚式、訪問、相談、その中でのたびたびの絶句に言葉を授けてくださるのは、ただ主であると信じて牧師としての歩みを進めています。しばらく、牧師させていただいて、「按手」してもらわなければ立てないとつくづく思わされています。支えてくださる方々の祈り中で可能な働きです。そして、そのような人と人の関わりを支え、教会を立たせ続けてくださる父、子、聖霊なる神がおられることを信じます。本当は、按手式の真の主催者もまた、そのお方なのだと思います。そう信じて準備をし、そう信じて祈りを進め、そう信じて招かれるまま日を迎えたいと思います。▼聖書の中に出てくる按手には祝福、委託、公開の3つの重要な要素があります。祝福(創世記48章)においては、祝福をする者、祝福を受ける者、そして真に祝福をされる方との関係を確認します。委託(使徒言行録6:6)においては、教会の働きの内、代表して一般的に宣教・牧会が委託されます。任せておしまいの委託ではなく、共に担う委託です。またふじみキリスト教会には、ビジョンがありますので、その色づけもまた含まれるでしょうか。公開(民数記27:22−23)においては、6 月の諮問会にて広くアドバイスをいただき、7 月に「お披露目」を兼ねての就任按手式を行います。バプテスト連盟の諸教会、近隣の教会に広くご案内したいと願っています。       ≪按手式までの予定≫ 2011・5/24(火)〜6/11(土) 契牧師・信仰告白、召命告白準備期間 2011・6/26(日) 近隣教会牧師による教会と契牧師の諮問会(助言と励ましの時) 2011・7/17(日) 犬塚 契牧師就任按手式 【式内容】 礼拝・按手式、犬塚契牧師による召命告白・信仰告白、 教会と牧師の諮問報告、全員での按手祈祷他 【出席予定者】 ふじみ教会員、ふじみ教会の礼拝出席者、近隣教会の方 (契牧師は研修中のため、坂根がCS教材からポイントをまとめました。)



2011年6月12日

「善行・・・先週の説教要旨」

犬塚 契

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。  マタイ6章1-4節

 今から2000年前のユダヤ社会。その時の善行といえば、施し、祈り、断食の3つだった。どれもマタイの6章に登場する。1-4節は、施しについてイエスキリストが教えられたシーン。現代の社会保障の歴史はわずか百数十年、当時においては貧しい人々は施しによって養われる必要があった。跡取りのないまま夫を亡くしたり、生まれつきや事故によって体の自由を失ったり、幼いまま両親を亡くしたりの社会的弱者に対する施しは、人々が担うべき大切な働きだった。マタイの6章に登場する偽善者といわれた人々の動機は、必ずしもやましく、賞賛を買うためだけだったとも言えない。施し、祈り、断食の善行に使命を感じ、みんなの代表として、モデルとして、見本として、「施し」をアピールしていたようだ。偽善者は大きく手を広げて、大々的に、多くの人々に明らかになる形で施しをした。それではまるで、街角でラッパを吹き鳴らすようなものだとイエスキリストは言われた。▲街角で繰り広げられる”施しショー”の中で、更に奪われようとしている人々がいた。人生の大切な柱を失い「施し」を受ける身になり弱りきった人々が、偽善者のラッパの音のもとにわざわざ集められ、善行の材料として、ま た民衆の操作に利用されるなどおかしなことなのなのだとイエスキリストは言われたのだった。▲「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)とある。善行は人に知られぬように、また自分にも覚えておかぬようにとの戒め。それは神を父として拝する家族にこそ可能にされた子の歩みだと思う。



2011年6月19日

「一日ずつ・・・先週の説教要旨」

犬塚 修

「神の国と神の義を求めなさい」 マタイによる福音書6章33節

 今朝はペンテコステ礼拝である。聖霊に満たされた弟子たちは、全世界に派遣されて行った。彼らの中に残存していた恐れや思い悩みという心の闇は取り払われ、大胆な宣教者、また使徒として再出発した。すべては、聖霊のみわざによったのだ。いかなる時に聖霊は臨在されるのか?「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2:1〜2)とある。第一は、信徒が教会に集まり、祈りに専念する時であった。その意味で教会にとっては、毎週の水曜日の祈り会は非常に重要である。ここにすばらしい救いのわざの源がある。第二は、思い悩みからの脱却である。私たちは日常生活の事で、悩み苦しみ、不安と動揺で満たされてしまいやすい。人間は過度の責任感や見栄、不相応の理想主義、「〜しなければならない」式の窮屈な考え方に縛られて生きてしまう。主イエスキリストは「それらのすべてから離れよ」と優しく語られる。むしろ、「ただ神の国(神の支配)と神の義(神との正しい関係)を求めよ」と命じられる。私たちは無意識的に、人の支配や人の義ばかりを求めてしまう。人の言動に左右されて、本来持っていて良い生きる自信を失い、絶えず一喜一憂する。相手に振り回される依存的な生き方を捨てたいものだ。また、自分の義を主張して、正しい勧告を拒絶しやすい。それは自分が神の座に座っている姿である。またその過ちにも気づかない。私たちの日々は苦労が絶えないかもしれない。だが、その苦労を担われるのは、主イエスなのだ。だから、苦労は一日ずつ負えばそれで良い。一度に全部を背負おうと躍起になるので心はつぶれてしまう。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)とある。日々を感謝、感謝で生きたい。また「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とある。私たちには鳥のような翼はないかもしれないが、私たちの価値は彼らよりも優れている点は何か?「価値がある」とは原語で「背負って通る」という意味だ。私たちの命も人生も主の温かく、広い背中に負われている。そこに私たちの真の価値がある。主イエス様と共に生きる人は、平安と歓喜の生涯を創り出す。



2011年6月26日

「わきあがるいのち・・・先週の説教要旨」

犬塚 修

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 ヨハネ15章1〜2節

 主イエス様は真正のぶどうの木であり、私たちはその枝である。また御父は私たちの人生の中で無益な部分を取り除かれる。その出来事は枝自身から見れば、痛く、辛いことだが、将来の恵みを考えるならば有益な義の訓練である。無用な枝とは密かな野心、欲望、プライド、自我、恨みなどである。私たちは幹でなく、枝である。幹には大きな責任が伴う。幹には自己責任、義務感、過剰な労働、精神的抑圧が加えられる。幹はイエス様であり、私たちではない。ゆえに無理に背伸びする必要はない、主にすべてを任せて生きるだけで良い。あふれ出る命の源は私たちの内にはなく、ただイエス様のみにある。枝は幹につながることだ。この枝が幹から離れるならば「外に投げ捨てられて枯れる」。「つながる」は「生きる・存在する・泊まる・待ち望む」という意味にも解釈できる。いつでも主に期待しよう。私たちはつながる相手を間違ってしまいやすい。仕事・名声・名誉・業績・家柄・学歴・立身出世欲・家庭・子ども・財・恋愛ほかにもいろいろある。いずれも人生の一部分に過ぎないので、幹にしてはならないと思う。なぜならば、いつか裏切られることもあり得るからである。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(16節)「選び」とは「熟慮して取り分けた」の意味であり、ここには主の命を賭けた決断がある。しかし、人間は傲慢にも、主の愛を疑い、軽んじ、無視して主の真実な招きに応えようとせず、むしろ自分の意のままに生きようとする。それを罪という。私たちに求められているのは主に対する謙虚と、信仰の決断である。主の愛を無視し、滅びの道に進んではならない。人間は生きているのではなく、主に生かされている。もし私たちの心に強烈な権威があるかのように錯覚し、主の言葉を侮るならば、それは空しい事である。他方、心が砕かれて、自分の罪を率直に認め、悔い改めて生きるならば、永遠の祝福は追いかけてくる。水は高い地点から低い場所に流れるように、主の愛を受け入れる者となりたいものである。


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