巻頭言
2010年6月


2010年6月6日

「つづく・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 ヨナ書4章

ヨナがなぜニネベの町を嫌ったのかの詳細は分からない。ひょっとするとヨナの母国イスラエルはニネベによって滅ぼされ、何も残っていなかったのかも知れない。あるのは、神だけであり、せめて「神合戦」だけは負けたくないと思っていただろうか。被害者と加害者の関係の中で、被害者ヨナが、加害者ニネベの祝福を祈るとは土台無理な話だった。しかし、壮絶な神合戦のはずが、神は寛容にもニネベの町を赦してしまう。ヨナは面白くない。「死んだほうがましだ」と言う。加えて神の計らいで生えた“とうごま”がよい日除けになっていたが、虫によって枯れてしまった。焼けるような日差しがヨナを焦がし、中東の乾いた熱風がヨナを襲った。 私の“とうごま”は枯れた、私の体はぐったりだ、私の人生は踏んだり蹴ったりだ、ヨナはそう思った。回りの環境の変化によってヨナの心も揺れた。環境の奴隷だった。▲私のもの、私の人生、私の生涯、私の命と思い、握り締めている時、失うのが恐ろしい。たまたま“とうごま”が生えてくれば、ハッピーになるが、枯れると死にそうになるようなシーソーの日々がある。しかし、もともと人間が「これはわたしのものだ!」と正当に主張できるものが地上にあるのだろうか。ヨナ書の4書において、問われるのは神の主権である。いつの間にか立場の逆転が行われ、天を指差し神を告発しようとする。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」。▲ヨナ書は神の語りかけで終わる。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか…」。ニネベの人々もわたしが生かし、育んだ人々なのだと神は言われる。しかし、ニネベの人々は3章の悔い改めで解決済みであって、既にハッピーエンド、本来4章はいらないと思う。ならば、4書はヨナのためだけの章である。12万人だけでなく怒れるヨナもなお神の育みの中にあった。そして、その育みは私たちにまで「つづく」。



2010年6月13日

「捧ぐべきもの・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。」レビ記1章 

「オレは四足はやらないんだ」。お世話になっている板金屋さんから鹿肉をいただいたことがある。その鹿肉もおじさんが仕留めたものでなく、仲間が送ってくれたものらしい。自分よりも大きな動物が、血を流し、悶え、息が細くなり、やがて命が絶たれるのを近くで見るのは辛いのだろう。日常生活でほとんど見ることのできない光景でもある。▲レビ記には神がイスラエルの民に教えた礼拝の方法が書かれている。自分勝手な人間中心の礼拝ではなく、神がその方法を示された。もし私が礼拝の仕方を考えることが赦されたとして、恐らくは痛まないものを提案すると思う。3回廻って手を叩く(そのときできるだけ大きな音を出す)、食事を一日4度する(そのうち一度は神のため)…なんて考えただろうか。しかし、礼拝は人間側の企画、催しでなく、神の招きの場であった。礼拝の中心は生贄を捧げることだった。自分が大切に育ててきた家畜の中から最上の傷のないものを神は求められた。神との交わりの場であった幕屋の前のスペースに奉納者は家畜を連れてきた。祭司はそれを真に神に捧げるに価するものか吟味した。余りものに歓喜する神でなく、心無い生贄を許す神でもなかった。問われたのは奉納者、礼拝者の心であり、まったき献身だった。捧げものがよしとされると家畜に手を置き、あらゆる罪の告白がなされた。それは罪が動物に転嫁することを象徴し、その後礼拝者はそれを自らの手で屠った。流された血は祭司によって祭壇の側面に注がれた。やがて完全に燃やし尽くされ、煙は祈りとなって神の前に昇った。しかし、このレビ記の規定は、何度も繰り返しが必要な不完全なものだった。▲私たちは今日礼拝に家畜もペットも連れてこない。手を置いての罪の告白もないし、屠るという行為もない。ただ月に一度パンとぶどう酒をいただく。どうしようもない罪人がキリストの血によって買い取られ、神のものとされたことを忘れないために。誘拐の際の身代金の額は知らない。財産はないから二束三文だと思う。それでも神はひとり子の血と引き換えにされたという事実。



2010年6月20日

「確かめながら・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の一人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。…穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。  レビ記2章 

感謝なことに、人は忘れる。だから苦労も失敗もあるのだけれども、やっぱり忘れることができるのは恵みだと思う。「時間は人を癒す」のも、たとえ傷ついたことがあっても時と共に記憶が薄れたり、忘れたりするように造られているからだ。あえてそれを拒み、受けた仕打ちを忘れぬように薪の上に寝て、苦い肝をなめた臥薪嘗胆の話もある。▲レビ記の2章に書かれてある規定は、「確認」の規定であった。「しるしとして」と書かれている箇所は、他の訳だと「記念」という言葉使われている。人は忘れるが故に、記念日を決め、記念碑を立て、記念誌を発行し、記念写真を撮る。イスラエルの民は、神の恵みに生かされていることの告白と感謝のために、「穀物の献げ物」を献げ、続いている神の守りを確認した。忘れることも幸いで、感謝であるが、記念もやはり大切だ。なんの繋がりもなく、降って湧いたボウフラのように生きてきたわけではない。自分で岩から抜け出てきたのではない。繋がりと導きの中で、なんとか歩みを進めてくることができたのだ。信仰生活のスタートも然り。危なげな神理解の始まりがあって、それでも否定されずによしとされて、確かにひとつひとつ正されて神様は導いてくださったと。完成なんて遠い、目の前の石に躓いてばかりいる。正しくない者の歩みがある。それでもなんとかかんとか憐れみの中に置かれていると感じている。今日も生かされている。それはやはり覚えられるべき、確認されるべきことなのだと思う。「献げ物にはすべて塩を」と書かれている。塩とは「信仰」だと榎本保郎牧師が書いておられた。信仰がない時、目に見えない神の働きを確認することができない。偶然、たまたま、ラッキー、ハッピーしかない。「すべてに塩を」。私たちの取り巻くひとつひとつに神の御手を確かめながら、歩みを進める者でありたい。



2010年6月27日

「常に絶やさず・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける」  レビ記6章

レビ記1章において人の罪が贖われるために、いのちの象徴であります血が流されていったことをみた。幕屋の前の庭で繰り広げられた、ありったけの罪の告白と動物に寄りかかるようにして行われた切なる祈り。そして、奉納者が自ら屠るというその神が規定した一連の儀式・礼拝作業の中で、彼らは今、確かに神が臨在し、私は神の前に出ているのだと認識したのだと思う。なんだか得体の知れないものに対する恐怖の恐れでなく、畏敬の畏れを抱いた。▲レビ記6章には、「祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける」と繰り返されている。彼らの共同体のド真ん中に、いつも燃え続ける祭壇の火があった。神の聖さを彼らは知らされていた。「鬼の居ぬ間に」という言葉もあるが、神の知らぬところ、神の不在、留守を彼らは経験しなかった。ごまかし得ない神の臨在があった。それは同時に救いをも彼らに差し出していた。罪に苦しむことがあっても、祭壇の火は燃え続け、いつでも、悔い改め、いけにえを携えて、あの祭壇の火のもとに行くならば、その人は赦された。彼らの住む宿営の真ん中で、祭壇の火は、神の臨在を知らせるためにまた、罪からの救い・神との関係の回復のために燃え続けていた。▲日本の文化は恥の文化であるといわれる。人様に迷惑がかからないようにと、横の関係の中で道徳的基準が決められる。それは、迷惑さえかけなければ何をしてもよいことにもつながってしまう。対して罪の文化は絶対者との縦の関係で自らを認識する。真ん中に何を据えるのか。誰を恐れて、畏れているのか。私たちは時々、吟味する必要がある。恐れなくてもよいものを恐れ、畏れるべきを畏れないことがあるように思う。箴言の記者はこう書いた。 「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言29章


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