巻頭言
2009年6月



2009年6月7日

「セカンド・ベスト」

牧師 犬塚 修

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があな たがたに求めておられることである。Tテサロニケ5:18

 

この命令を 道徳的・律法的に解釈すると恵みとはならない気がします。なぜならば、そうできな い自分にいらだったり、開き直ったりする恐れがあるからです。また、自分の信仰の 弱さを嘆き、虚無的で敗北主義的な傾向に陥るでしょう。パウロはそのような意味で はなく、これを“恵み”の命令として書いたのです。現実の世界は自分が願ったよう にならない事が多いです。そのような状況下で、どうしたらいつも喜んで生きる事が できるでしょうか。その秘訣はセカンド・ベストの生き方にあると信じます。ファー スト・ベストを求めるとは、自分にとって最高の状態を切望する事です。しかし、そ れが異常な執着やこだわりと堕し、中々実現しない事により、主に対する激しい怒り 、不平、絶望感を貯め込みます。それが悲劇と不幸をもたらす原因となるのです。ス ト-カ-行為はその現われです。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそ われるからである」(ヤコブ1:14)とあります。これに対して「セカンド・ベスト」とは 、最高の状態を切望せず、「次善」でも十分に感謝する心です。もし、私達がファ-ス ト・ベストだけを追求するならば、現実をそのまま受容できず、自分を“悲劇の主人公 、または被害者”と見なすでしょう。大事な事は、希望通りに進まなくても、そこに も主のご支配があると確信して、まずとりあえず「これも感謝しますと言うのです。あ とで、感謝の理由をアレコレと考えるのです。これが「すべてを感謝する」秘訣です。 どんなに足りない状況であっても、感謝して受け入れる時、不健康な空想趣味、妄想癖 、「〜依存症」、さらに犯罪への傾斜に至る事はありません。「まずは感謝します」口 癖こそが人生をすばらしく変えるのですから。


2009年6月14日

「肉の欲」

牧師 犬塚 契

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる ようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自 分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、 わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っ ておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり 、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望 もろとも十字架につけてしまったのです。

ガラテヤ>5章16〜24節

 

  幼い時、「肉の欲」の言葉からステーキやケンタッキーのイメージしか浮かんでこなかった。抽象的に書かれた事が少しずつ生活の具体的な事柄とリンクするようになって「霊と肉」の違いに気がつくようになった。▲「正しい事だ、正義だ、善意だ!」と思って事をなし、まったく反応がない場合や、 逆効果だったりするとうんと疲れる。疲れるだけならまだしも、やがて善意は怒りに変わり、妬みに変わる。だんだん悪臭を放ってきた善意によって、 ようやく気付く。「あぁ〜、肉の欲でやろうとしてたんだなぁ」と。ハナっから神そっちのけで、自分で始めて、自分で仕上げてやろうとしていたんだ と思わされる。霊の結ぶ実を読みながら、内住のキリストの霊によって事を成す者でありたいと願った。


2009年6月28日

「キリストと共に」

牧師 犬塚 契

わたしにとって、生きるとはキリストであり、 死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

フィリピの信徒への手紙 1:215:18

 

田舎で起きたイエス・キリストの十字架の出来事を神学的にまとめ上げ、 それを生き抜き、福音として全世界にまで広めた人物。イエス・キリストの弟子12名ではなかったが、当初クリスチャンを迫害する 者であったところから回心し、教会を建て上げ、12弟子にまで影響を与えたパウロ。それから後のクリスチャンの切り札であり、 代表である。そのパウロが、今、自分は板ばさみだと語る。早く復活の主イエス・キリストとまみえることを願っているが、まだ 地上での使命も残っているようだと…。パウロにとって生きることは、自己実現の謳歌でなく、キリストを生きることだった。▲ アダムとイブが罪を犯して以来、地上にはその報いとして死がフッと入ってきた。神が「良し」として造られた地上は、その美し い片鱗を多く残しながら、死もまた同時にある状態になった。いつまでも生きられると思いがちだが、隣人が天に召されると、死 がある現実を改めて教えられる。しかし、「イエス・キリストは門」であって、そこを通るときに、死は天へ続く玄関であること を思う。また会うことのできる幸いを思う。





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