巻頭言
2008年6月


2008年6月8日

上にあるものを求める

牧師 犬塚 修

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたので すから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリスト が神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留 め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた がたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと 共に神の内に隠されているのです。 コロサイ3:1〜3

人生を狂わせるものに隠れている欲望があります。そのマイ ナスの衝動に突き動かされると、美や善なるものが吹き飛ん で、堕落の道に突き進みます。それは「〜依存症」というか たちをとる場合もあります。欲望にサタンの魔力が忍び込み 、今まで苦労して築き上げた価値ある人生を破壊します。私 達はその魔力に抗して、戦い、勝利を収めねばなりません。 どうしたら、打ち勝つ事ができるのでしょうか。それは、上 を求める事によります。地のものに惹かれる心を打ち砕き、 上にあるものに向けるのです。上は、自分にとって楽しい夢 や生活を頭に思い描く場合もあるでしょうが、最高の方法は 「私は人生の中で神の栄光を現したい」と願う事です。上に 思いを向けると、心は清さを取り戻し、自分本来の姿が甦っ てきます。偽りの自分とは、欲望に支配されている不自由な 自分です。サタンは「欲望に負けているお前が本当のお前だ 」と言います。それは違います。彼は神の子としての尊厳性 を打ち砕き、自分はダメ人間だという錯覚を与えようとする のです。しかし、イエス様は「わたしの話した言葉によって 、あなたがたは既に清くなっている」(ヨハネ15:3)と力強 く語られました。すでに、私達はイエス様の赦しによって清 くされたのです。その真理に堅く立って動かされず生きまし ょう。



2008年6月15日

「傷ついた葦を折ることなく」

牧師 犬塚 契

傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すこ となく裁きを導き出して、確かなものとする。 イザヤ書42章3節

どちらかというと私はすぐに、白と黒、善と悪、0か100 と、二者択一的に決め付けてしまいたくなる。灰色の部分に しばらく身を置くことが耐えがたかったり、早急に明確な回 答を求めたがったり、待つことに不得手であったりする。け れども、。灰色の部分に身を置く、灰色をしばらく生きてみ るという所で忍耐や思慮深さやオリジナリティーが生まれて くるのではないかと思うようになった。▲世の中全体のペー スがますます速くなり、短路的で安易でも、早急に答えを欲 していく中で、聖書の言葉を手がかりに歩むことを成してい きたい▲ファミリーキャンプの講師である岸義紘氏が著書の 中でキリスト者の証について書いていた。なんだかその中に 成功と失敗に分けることのできない被造物の謙遜さを見出す ように思った。「弱い私がキリストを信じて、力強く生きて いる。・成績の良くない私だけれど、自分を嫌わず、自分の ペースで生きている。・頭の悪い自分だけど、ひがんだり劣 等感に捕まらないで、ありのままの自分を最高に生きている 。・マラソンでビリの自分が、最後まで投げ出さないで、顔 を真っ赤にして走っていく。・病弱の私が感謝の生活を送っ ている。・貧しい自分が卑屈にならず、足ることを知る生活 をしている。・無口で目立たない私が、笑顔で一生懸命に生 きている。・だれからも注目されない私が、ひたすら自分自 身を生きている。」



2008年6月22日

王様か僕(しもべ)か

牧師 犬塚 修

あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わた したちを抜きにして、勝手に王様になっています。 Tコリント4:8

私たちには二つの道があります。第一は主を悲しませる道で あり、第二は主を喜ばせる道です。第一の特徴は「王様」感 覚に、第二は「僕」感覚に動かされた信仰の道です。
さて、ここで言う王様とは自分が好む事を行い、家来を絶大 な権威をもって、コントロ-ルし、操縦する事によって自分 の思いのままに動かそうとする人の事です。結局、彼は自分 の利益や幸福の事しか考えていません。人々がどうであろう か、そんな困窮にも余り関心がありません。あくまでも、自 分の王族、また自分の事だけが最大の関心事です。もし誰が 王の権威を引き下げる仕業をすると、怒りだし、復讐します 。彼は自分本位、自己中心、エゴイズム、自己満足、富とい う豪華な礼服を身にまとっています。王様には神や人に対す る感謝はなく、常に不平と不満の心がくすぶり続けています 。
第二は僕としての自己の明け渡し、自己放棄、献身の生き方 です。「私たちはキリストのために愚か者となっている。… 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待 され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいま す。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしら れては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたした ちは世の屑、すべてのものの滓とされています」(10〜13節) とパウロは悲痛な叫びのような文章を書きます。ところが、 その文章にはふしぎな明るさと清々しさが漂っている感がし てなりません。次に「わたしに倣う者になりなさい」(16節) とある通りです。僕に徹したパウロは自分の都合を優先しま せん。彼は自己実現や幸福追求ではなく、神のみ心を行いた いという使命の実現を最高の生きがいとしました。神の忠実 な僕として生きる人は幸いです。



2008年6月29日

「王の祈り」

牧師 犬塚 契

わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から 引き出してくださる方に。御顔を向けて、わたしを憐れんで ください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち痛 みからわたしを引き出してください。     詩篇25編 15〜17節

ふて寝をする。旅に出る。銀玉を追う。テレビを見る。音楽 を聴く。温泉に入る。大自然で深呼吸をする。・・・いろん な気分転換があるのだと思う。山形でカウンセラーとして活 躍する金藤晃一さんと寮で一緒に生活していた時期がある。 忙しさの中で、それこそ忙殺されそうに見える時、金藤さん がよく「あ〜、詩篇をじっくり読みたい」とつぶやいていた のを時々思い出す。あまりにも実感を込めてつぶやくものだ から、詩篇がよっぽどおいしいもののような気がした。▲ダ ビデは王である。一番偉く、権力を持ち、欲しいものは手に 入る。想像してみる。もし、隣に座った壮年が突然、上記の 聖書の言葉のように祈り始めたら、どう感じるのだろうか。 私は度肝を抜かす。こんなにも弱そうで、泣きそうで、正直 な「おとな」を私はあまり知らない。チラッと顔みてもし、 それが王ならば、なおさら驚くと思う。▲「人は、自分の貧 しさが明らかにされたとき、自分も救い主が必要であること を発見します。そして、その貧しさゆえに、主イエス・キリ ストに目を向け、助けを呼び求めるほかなくなります」(ジ ャン・バニエ 小さきものからの光)▲どんな祈りをささげ ることができるだろう。





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