巻頭言
2007年6月


2007年6月3日

「望みをかける」

牧師 犬塚 契

…「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。 異邦人は彼に望みをかける。」希望の源である神が、信仰によって 得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力に よって希望に満ちあふれさせてくださるように。 ローマ書15:12-13

「よし!これにかけた」とか「あなたにかける!」とか「いのちを かけて」とか…。毎日使うものでもなさそうで、只ならぬ雰囲気が ある。いろんな可能性や逃げ道を探している時には、ほとんどこう いう言葉は出てこない。パウロが引用したイザヤの言葉、「異邦人 は彼に望みをかける」とは、傷つき、痛んだ人々の叫びにも似た懇 願に聞こえる。「もうこれしかない」▲そして私たちもそのように 歩みを進めさせていただいているように思う。だんだん残されてい るものがそう多くないことを知るに至って心細さを覚え、孤独を感 じ、一方でなんだか雑音が消えていくかのようにイエスキリストの 言葉(歩み)が響いてくる。「希望の源である神が…」とパウロは 続ける。彼は、どこから底力が湧いてくるのかをよく知っていたの だと思う。他の個所でもパウロは「源」を登場させる。「忍耐と慰 めの源」「平和の源」「希望の源」…。今日からまた「源泉ツアー 」が始まる。



2007年6月10日

「教育と奉献」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられ るものです。 フィリピ2:4〜5

今から26年前、テキサス州にあるリッチィ・ストリ-ト教会に妻と伝 道旅行した際、その教会の兄弟姉妹たちが、自分の妻や子供たち、ま た自分の教会に対して深い愛を持ち、また愛の表現が行動的、具体的 、かつ明確であることを教えられたことを思い出します。そしてこの 私自身は近い存在に対して、どうだろうかと省みたのですが、自分の 場合は、その伝達がいかに貧弱であるかを気付き、悔い改めずにおれ ませんでした。愛というものはかたちをもって表さない限り、伝わら ないものだと悟りました。ゆえに愛情の表現はより積極的であること が望まれます。愛は行いを通して、明確化していきます。言葉だけの 愛ではなく、自分にとって大事な存在のために犠牲を支払うことです 。「奉献」の生き方とは、自らそのものを主に捧げ、喜んで犠牲を払 い、主に仕える事です。主への奉仕を喜び、人の足を洗うイエス様の しもべとして生きたいものです。「彼らは苦しみによる激しい試練を 受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、 人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししま すが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者 たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに わたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼 らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を 献げた。」(Uコリント8:2〜5)



2007年6月17日

「楽しんでいるか?」

牧師 犬塚 契

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。  野ばらの花を一面に咲かせよ。 イザヤ書35:1

日が落ちる前の2時間が空いたので「こどもと大人のデイキャンプ」 の下見を兼ねて川に行った。投網で夕食の食材を確保した後、同行 者の弟が言った。「ちょっと、川に顔つけてみなよ。川と会話でき るよ。」顔とシャツが濡れていたので、お話していたのだろう。し かし、そのメルヘンチックな話し方が気に入らなかったので、行動 に移さなかった。しつこく、川と会話するように勧めるものだから 、重い「顔」をあげ、土手に横たわって清流と会話してみた。思い のほか楽しかった。その顔を上げ、河原に寝ると夕暮れの空とも深 くなった緑とも会話できそうな気がしてきた。▲「楽しんでいるか ?」と久々に問われたように思った。神様が花に色をつけたのも、 緑が変化していくのも、夕焼けを単色にしなかったのも、恐らくは 人を喜ばそうとし、その笑顔が見たいがためだったのかもしれない 。美しいものを見て心が和んだり、きれいな旋律を聴いて感動した りできるということは、ひとえに創造主にセンスがあることを示し ている。「どう?楽しんでる?」▲山の上に住んでいるから、ウグ イスが鳴き声の練習しているのが聞こえた。「ホーホケ」「ホーホ ケ」…上手に鳴けない。やがて聞こえてきた。「ホーホケキョ」。 おやっ?小鳥は自分の喉が急に開かれたように感じたらしく。何度 も美しく鳴いていた。「楽しんでるなぁ」そう思った。▲ゴスペル ・デイキャンプ・ファミリーキャンプ…。盛りだくさんだ。よい夏 にしよう。



2007年6月24日

セルの恵みについて

牧師 犬塚 修

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンの ひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ち る。シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。 詩篇133篇

セルとは、小グル−プによる交わり会のことです。教会に集う時、 大勢になりますと、交わりがあわただしくなり、ゆったりとしたも のとならない傾向が出てきます。一人一人が生き生きとなり、心地 良い愛の交わりは、さらに小さなグル−プの中で生まれます。兄弟 愛の深まりのためにもセルは必要です。家族の交わりは少ないメン バ−の方がより濃い対話ができるのに似ています。私たちはセルを 聖書の指し示す初代教会の姿として理解しました。週末のセルは共 に集まり、交わりの楽しさを味わう良い機会と思います。どうぞご 参加下さい。主にあって、心が一致し、イエス様をほめたたえる交 わりは、心が燃える喜びと平安に包まれます。「二人は、「道で話 しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたした ちの心は燃えていたではないか」と語り合った」(ルカ24:32)とあ ります。セルの交わりの中で、復活のイエス様とお会いしましょう。





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