巻頭言
2006年6月


2006年6月4日

恐れと平和

牧師 犬塚 契

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。  ヨハネによる福音書14章27節

 幼稚園を併設していた教会だから、地域の認知度は高かった。それでも小学校前でチラシを配ると通報され、先生が登場し「こんな時世だからやめてください」と。牧師は、もうチラシ配りができなくなったと嘆いていた。ふじみ教会は、少し田舎にあるからもう少し大丈夫だろうか…。それでもなんだか生きずらい世の中の感じがする。▲一人一人の平安が「恐れ」に取って代わられて、平和がもろく壊れていくのがみえる。労力や時間や断念や手間のかかる「へいわ」よりも「へい」を作った方がやっぱり簡単なのだ。▲運転しながら、ボーっとそんなことを考えている昨日今日。そして、最後は自分の覚悟を問われる。どんな覚悟かは下記▲…新約聖書には、もしも敵が右の頬を打つなら左の頬をも差し出しなさいと書かれているではありませんか」と言った。アンドリュースは口ごもり、その言葉は比喩として使われていると思ったと言った。「はっきりとは分かりませんが」とガンジーは答える。 「あなたは勇気を見せなければならない、とキリストは言ったのではないかと思います。つまり喜んで一度か数回殴られて、あなたには殴り返すつもりもないし、逃げるつもりもないと示すのです。そうすれば、人間の本性の中にある、彼の憎しみを減らし、尊敬を増やす何かに訴えることになるのです。キリストはそれを知っていたと思いますし、私はそれが功を奏すのを見てきました。」(フィリップヤンシー著「誰も書かなかったイエス」)▲「覚悟できているか契?勇気あるか契?」って、仕返しをしなかったイエス様が実体をもって語りかける。そして、私は無口になる。自信なく、それでもイエスの弟子でありたいと思う。




2006年6月11日

罪は隠された

牧師 犬塚 修

主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる       ミカ書4−19

  私たちはとんでもない失敗を犯す時があります。そして、これは到底取り返しがつかないと思い煩い、死んでしまいたいとまで思いつめることもあります。心はバラバラになり、ゆとりを失います。それは信仰の危機、生命の危機にさえなるほどです。しかし、そのような時こそ、私たちは主のみ言葉により頼むことです。早計に結論を下してはなりません。私が私自身を裁く事はタブ−です。裁くお方は主のみです。では、主は私たちの罪や失敗を見逃さず、厳しく弾劾されるのでしょうか。答えは否です。主は私たちの罪のすべてをご自分で背負われました。そして、赦されました。主は私たちを憐れみ、罪を海の底、誰も気づかない深い場所に閉じ込められました。私たちは刑事に追われる犯罪人意識で、自分の犯した苦い事柄から離れようとしたり、誰かが自分の弱さを知っていて、それを責めたててくると思いがちですが、決してそうはなりません。なぜならば、主がその出来事を隠し、見えないところに移して下さるからです。これは奇跡的な事であり、喜び、平安の要因です。ゆえに、心が憂いに満たされる事柄が起こりったり、期待していたのに裏切られたり、思った成果を得ないと心はなえ衰えます。しかし、主の完全な助けをを信じられないゆれ惑う心が問題なのです。赦されているのに、その実感がないと悲しんではなりません。それは感情によらず、信仰で受け止める事です。何があっても、私の人生は主にあっては大丈夫と自己宣言して、雄々しく生きぬくことです。




2006年6月18日

断念

牧師 犬塚 契

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、…この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

  仕事に出たが、気持ちよく晴れていてもったいない。横を見ると川が流れていて、トランクには投網があったので、「癒しの時間」とした。泥とスイカの匂いがするアユがとれた。豊かな夕食。▲イエス様が漁師たちを弟子とするシーン。日頃からイエス様の話しを聞き、その働きに感銘をうけていたのだろう。そして、転機。仕事場をイエス様が訪ねてきて、最高額?のオファー、「人間をとる漁師にしよう」。彼らには魅力にうつった。…復活後の歴史は、イエスキリストのことばが真実だと証ししている。▲合計4名が弟子になったこの日、彼らが「断念」したものの大きさを想像する。最初の二人は商売道具、後の二人は加えて財産目録のトップと父親。▲おそらく「断念」とは自分で握らず、神のものとするという行為なのだと思う。アブラハムはイサクを「断念」した。▲自分の握っているもの、固執しているものを数え上げて、神のために「断念」していることの少なさを思った。




2006年6月25日

勇者として生きる

牧師 犬塚 修

神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。  箴言24:16

 人生を舞台にたとえるならば、名優と呼ばれる人々は、手抜きを一切しないで、全身全霊で自分の役割に没頭します。その努力が報いられるためには強靭な体力と気力が必要と言われています。単なる努力ではなく、死力を尽くすような奮闘が要求されるのです。しかし、いかなる名優でも人間ですから、時々、演技の上で、大失敗を犯してしまうこともあるでしょう。その時、彼を襲うものは挫折感や失望感ですが、その厳しさの中で、勇気を持って立ち上がる事が大切なのです。ここに「神に従う人は七度倒れても起き上がる。」とあります。私たち人間は弱い生き物で、順調に事が運んでいる時は、がんばる気力も持続していますが、一度、失敗したり、歯車が狂うような出来事が起こると、ショックを受けてしまい、本来持っている力さえも発揮できないことが起こります。「人の霊は病にも耐える力があるが、沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」(同18:14)とあるとおりです。この試練に打ち勝つためには、日々の訓練にかかっています。その訓練とは、最悪のパタ-ンを自らが想定し、その時に冷静沈着に、また勇気をふりしぼって戦いを続行できるかを訓練することです。ベスト・コンディションで練習するのではなくて、最悪の中でもがき苦しみ、立ち上がり、戦うのです。そのことで、いかなる試練にも打ち勝つ力を培うのです。自分が100点をとることが命令されている優等生が30点しかとれなかった時は、ガッカリしますが、悪い点数にへこたれない生徒は、たくましいものです。私たちが比較する時は、自分の最低状態に置くと、後は昇るだけになります。そして、ついにはすばらしい実を刈り取ることができるのです。



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