巻頭言
2005年6月


2005年6月5日

「奉仕と戦い」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救 いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにして いなさい。」 出エジプト記14:13〜14

モ−セは奴隷の国エジプトを出ましたが、行く手には海が行く手を拒み、さら に後方には、恐ろしいファラオの軍団が強襲するという絶体絶命の大ピンチに 立っていました。民はパニックに陥り、呆然となりました。その中で、モ−セ の最後の望みは、主なる神に頼る以外にはありませんでした。主の助けを信じ たモ−セは恐れ惑う民に、上記の力強い言葉を語りました。そして民はすばら しい救いを体験するに至ったのです。この出来事を通して学び得る事は、厳し い現実と戦うのは私たち自身ではなく、主なのだという約束です。「目に見え る現実」と「神的現実」。私たちは前者ばかりが気になりますが、実は後者を 見る事が大切です。神的現実は、信仰の目で見る世界です。そこでは、荒れ狂 う海が、真っ二つに分けられ、広い救いの道が敷かれています。私たちはそこ を自由に歩く事ができます。その道は、神に支配され、人間的な苦しみから解 放される道です。私たちの苦悩の原因の一つは、自力信仰にあるのかもしれま せん。自らの力で何とかしようと、苦しみ、困っている人に手を差し伸べ、解 決を図ろうと努めますが、その必死の努力が報われませんと、失望落胆して、 無力感のとりこになります。自分がやらないと事態は少しも変わらないという 強烈な思い込みや盲信が私たちを苦しめます。だから、「静かにしていなさい 」とのみ言葉が響くのです。



2005年6月12日

「応援をする人、される人」

牧師 犬塚 契

パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分 けて食べるからです。   Tコリント10章17節

様々な問題に直面していたコリント教会。今は、その使命を終え、既に存在し ないが、パウロの書いた手紙は残っている。その中の一文が上記の聖書の言葉 。パウロが「パン」と書いたのは、イエスキリストを表している。十字架上で 血を流し、肉を与えたキリストによって、私たちは罪の中から贖い出され、買 い戻された。「死(創造主からの完全な断絶)」の請求書を突きつけられてい たわが身が、無罪放免となった瞬間だった。努力でなく、報酬でなく、恵みと して、ただ一方的に与えられたものだった。コリント教会に必要だったのは、 その恵みの福音だった。「・・・わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト 、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたか らです」。パウロが賭けたのは、その十字架の福音だった。▲「ユートピア的 現実」ではなく、「神的現実」という言葉を教えてくれたのは、ボンヘッファ ーだった。教会にも様々な課題がある。「あー、これがなければなぁ・・・」と思 うこともしばしば。しかし、だからこそ、教会なのだと思えるようになった。 神によって、立てられ続け、必死にその使命を担わされている教会。それが教 会の姿だと思う。教会に来るとすべての答えがある?うーん、そうでもない。 ・・・がイエスキリストのもとにはある。だから、共に祈り、共に悩み、共に聖書 を開き、共に賛美する。▲「共に」の姿は、人と人が見つめ合う姿ではく、各 々が神に答えを求めていく姿勢。いつも、教会(人)にその一点が問われてい る。そして、それが、サークルではなく、キリストの教会をつくりあげること なのだと思う。



2005年6月19日

「シナイ山にて」

牧師 犬塚 修

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互い に交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 第一ヨハネ1:7

今から9年前、妻と共に、イスラエル旅行に行くことができました。その中で どうしても忘れ得ないものとして、シナイ山登頂があります。肌寒い午前3時 頃出発した私たちグル−プは、黙々と山頂を目指し、ようやく、日の出の頃に 、頂点にたどり着きました。東の空がうっすらと明るくなってきましたが、次 々とくり広げられる美しいパノラマにすっかり目を奪われました。朝日が山な みを360度にわたって紅色に染め上げていったのです。この山はまさに巨大 な岩の山脈なのですが、その荒々しい岩壁が紅色に染め上げていく光景は、神 聖、荘厳そのものでした。今から2200年以上も昔、モ−セはこの山に立っ て、この聖なる光景を見たことでしょう。彼は真っ赤に輝く色を見て、将来に 神は驚くべき救いの出来事を起こされるという予感を感じたことでしょう。神 は太古の時代から、御子イエスによる血によるあがないを計画されたのです。 私たちの人生がシナイ山のように、荒涼と似た一面があったとしても、義の太 陽であるイエス・キリストは私たちをあがないという真紅の血を注がれる時、 死んでいた私たちの魂は復活し、神の命が輝く人生となると信じるものであり ます。



2005年6月26日

「正論をもたずして」

牧師 犬塚 契

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、 だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエス はお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでも ない。神の業がこの人に現れるためである。            ヨハネによる福音書 9章2節

こんな風に考えることがある。疑いようのない「正論」が振りかざされる時、 逃げ場のない人がそこに置かれ、痛みは分かち合われず、正しいことが遂行し ているはずなのに、なんだかおかしい。弟子達がもってきたのは、「正論」だ った。病気は、神の罰、のろい、であり、罪の結果であるとする当時の正論だ った。イエスは、それをこれからの祝福とみなした。こんな話をどこかで読ん だ。電車の中で、飛んだり、はねたり、騒ぐ兄弟たち。横にいるお父さんは注 意することもない。乗客の一人がまわりの空気を察し、余りに耐えかねて、勇 気をふりしぼってお父さんに注意した。「わからないのですか?あなたのお子 さん達はみんなに迷惑かけているのですよ」。乗客の視線はこの家族に向けら れた。「そう、彼は正しい」。やがて、その騒ぐ兄弟たちを見つめながら、お 父さんは口を開いた。「ごめんなさい。申し訳ありませんご迷惑をおかけして 。この子どもたちも先ほど母親を亡くして、どうしていいのかわからないので す。」間違いなく自分が正しいと思っている時に限って、振り返ると一面的で あり、相手の人格を無視していたことを知る。そんな失敗を何度もした。痛か ったし、痛んだと思う。正論を振りかざさなかったイエスの歩みを追う者であ りたい。祝福を見るものでありたい。


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