巻頭言
2004年6月


2004年6月6日

「教育と信仰」・賛美月間を迎えて

牧師 犬塚 修

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわた しは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。 出エジプト記15:1

新緑の鮮やかなこの季節、共に主の新創造のみ業を信じて歩みたいものです。 日々、強い信仰と心からの賛美を主なる神に捧げましょう。今から約3250年以 上も昔の時代にあって、イスラエルは、エジプトにおける400年以上の奴隷 生活に別れを告げ、蜜と乳のあふれるカナンに向かって出立しました。ところ が、絶対君主であったエジプト王のファラオは、執念深く追撃してきましたの で、民は破滅と死の恐怖におびえました。民たちが自分の不信仰を悔い改め、 新たな思いで信仰の道を歩み始めたところ、急に試練が押し寄せてきわけです 。このような事は私たちの生活にも、確かに起こる時があります。たとえば、 私たちが意気揚々と信仰に生きようとすると、悪魔も誘惑と試練で迫り、さま ざまな方法で、少しづつ信仰を失わせようとします。試練を用いて、失望感、 虚脱感、無能感などを与え、信じる者の心をかき乱します。サタンの試みにあ うのは、その人が主に深く愛されているからです。悪魔は神と人と豊かな愛の 交わりにがまんできません。何とかしてその交流を邪魔しようとします。彼は 神の国に用いられやすい人を攻撃の的とします。その人が神の業をすばらしく 行う事が許せないのです。そんな危機的な時こそ、私たちは主に向かって、大 声で賛美し、また「信じます!」と叫んで生きるならば、サタンはあきらめて 逃げていきます。そして、不可能に見えた事も少しづつ、可能に変わっていく のです。いかなる時でも、主を求め、主のみ業は必ずなると確信して、賛美の 民として生きましょう。また、厳しい時ほど、大胆に神に近つぎましょう。危 機は主が恵みを降り注ぐ絶好の時となるのです。「神に服従し、悪魔に反抗し なさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさ い。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7〜8)



2004年6月13日

スッキリとした生き方

牧師 犬塚 修

もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。 マタイ5:29

私たちにとって目は非常に大切なものです。しかし、イエス様は「それがあなた をつまずかせるならば、思い切って捨ててしまいなさい」と言われました。いか に重要なものでも、信仰を弱らせるならば、思い切って切り捨てる事です。それ はモノだけでなく、目に見えないもの、たとえば、人からの愛や感謝や好意や賞 賛などにも言えるでしょう。これらのものを得る事よりも、大切なことは主のみ 心に従って歩む事です。自分をつまずかせるものに対しての執着心を捨てる、ま たえぐり出してしまう生き方は清く、さわやかなものとなるでしょう。たとえば 、人に対してノ−と言うべき時に、言えなかったり、妥協したり、優柔不断にな ったりしてしまうことなく、できない事については、勇気を出して「すみません が、私にはできません」と断る事もあるでしょう。重荷には、自分が負えるもの と負えないものとがあります。そして、不可能と思うものは、主にゆだねてしま う事です。それを無理して担うと、苦しみは倍加していきます。私たちは善い人 になろうとがんばって、何とか重荷を負おうとしますが、それが肉の思いから出 るならば結果は良いものとはなりえません。本当の愛は優しさだけではなくて、 厳しさも含みます。「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向け られ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向け られる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(ロマ11:22)私 たちの本当の敵は、他者ではなく、自分の心の中に隠れている気がします。主の ためにイエスはイエス、ノ−はノ−とするスッキリとした生き方をしたいもので す。「イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしま ったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって 進もうではないか」(ガラテヤ5:24〜25)



2004年6月20日

自信を持って生きる

牧師 犬塚 修

かつてあなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる者もなかったが今、わたしはあ なたをとこしえの誇り、代々の楽しみとする。           イザヤ書60:15

世界で尊敬されている日本人として賀川豊彦という人がいます。彼は、キリス トの愛を実践しようと志して、神戸の貧民窟で、命がけの伝道・奉仕を続けた 人物です。有名な著作の「死線をこえて」は当時、大ベストセラ−となりまし た。豊彦は幼少の頃、近所のいじめっ子から「ててなし子!(私生児の意味) 」とバカにされ、生きる自信を失っていました。ところが、ある日、アメリカ の宣教師から「あなたはお父様は天におられます。あなたの本当の父は天の神 様です」という言葉を聞いて、救いに導かれ、後年、偉大な使命を果たすキリ ストの弟子となりました。初めて、自分に対する聖なる自信が生まれたのです 。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだの である。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむす び、その実がいつまでも残るためであり…」(ヨハネ15:16) 自分の将来につい て絶望したり、自信が失われるのは、天の父との信頼関係がない時ではないで しょうか。主は私たちに対して、深い愛を抱いておられます。その愛に対して 「アァメン、あなたを信じます」という信仰告白が私たちを深い絶望感、挫折 感、疎外感から助け出すのです。かつては捨てられ、憎まれ存在感がなかった 自分であっても、今は主のあふれる愛と恵みによって、生かされている事を確 信し感謝しましょう。私たちは主にあってはとこしえの誇り、代々の楽しみと されているのです。ですからたとえ、いかに人から悪口雑言を浴びせかけられ ても、この主の驚くべき言葉に心を留めるならば、傷はすみやかにいやされる 事でしょう。移ろいやすい人の言葉に、一々反応して心騒がせてはなりません 。たとえ、何があろうとも、信仰によって聖なる自信を抱き、明るく生きてい く事です。



2004年6月27日

神学校週間を迎えて

牧師 犬塚 修

花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声 が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は 栄え、わたしは衰えねばならない。                 ヨハネ3:29〜30

神学校で学ぶという事はすばらしい事です。遠く学び舎まで出かけねばならな いという犠牲も伴いますが、それにも勝る大きな恵みがあります。現在、私た ちの教会でも、4名の姉妹たちが学んでおられますが、また新しい兄姉が来春 、入学される事を期待しています。神の言葉である聖書を組織的、系統的に学 ぶ事で、私たちは一層深く、聖書の世界に引き付けられていく事でしょう。そ れは豊かな聖書知識を得る事にとどまらず、主のからだである教会に仕えて生 きるという誠実な信仰姿勢に導くと信じます。まさしく、神学は「教会の徳を 高める」目的で生まれた学問です。また神学を学ぶ者はキリストが花婿であり 、自分は花嫁である事を確認するものです。結婚式を待つ花嫁は、純粋な気持 ちでその準備に余念がありません。その心は花婿を喜び、支え、共に生きてい く事に尽きます。そのように、私たちはキリストの花嫁となって聖書を学ぶの です。そこで求められているものは、従順であり、我意の衰えです。「あの方 は栄え、わたしは衰えねばならない」とヨハネは語ります。花婿であるキリス トの栄光を現す事が私たちの最高の生き方です。神学校で学ぶ人はさらに謙そ んになるように導かれます。それは自分の力で何かができるというのではなく 、むしろ、自分の弱さに気付き、しもべとして仕える事こそが、主が求められ るリ−ダ−シップなのだと悟るからです。現代社会は、自己主張が溢れている 喧騒の時代であると言えます。そのような騒がしさの中で、今一度、静まり「 神にある人生とは何か、生きる目的は何か」などを真剣に聖書に問う事は大切 な事と信じます。自分を主に任せて歩む時、主は私達を尊い器として用いられ ます。


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