巻頭言
2002年6月


2002年6月 2日

 「礼拝と畏敬」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神 である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に わたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。
創世記17:1〜3

神を信じて歩く人は、ますます楽天的に生きられるようになります。その歩みは天国を目 指す巡礼者に似ています。彼らの願いは心から、聖なる神のみ前にひれ伏すことでした。 今から約二千年前に生きたアブラハムは「天を仰いで、星を数えることができるなら、数 えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」という神から のみ告げを受けました。そして「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」 (同15:5〜6)のです。その時から、様々な出来事があり、何度も信仰の挫折を味わいました。 そして、13年の月日が流れたのです。その歩みの中で、アブラハムの信仰は成長をとげ ていきました。彼は自分であれこれと考え、思い煩う人から、全能の神のみ前にひれ伏す 人となっていたのです。そして、ついに、時が満ちて、神の救いの行動が開始されました。 ひれ伏す時、私達は人生の真理を悟りえます。ふしぎにも長い目で人生をとらえ、心から 神のみわざは完全であり、かつ、愛そのものであると確信できるようになります。救いの ご計画も心に見えてきます。主にすべてを明け渡したひれ伏す信仰を持つことです。全能 の神への畏敬で満たされることです。「畏敬」とは神への絶対的な信頼感です。「イスラエル よ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画 を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の 神なる主」 (アモス4:12〜13) 自分の神と出会い、すべてをゆだねるならば、平安と喜びが 満ち溢れるようになります。



2002年6月 9日

 畏敬と聖について

牧師 犬塚 修

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ6:3

今朝は、花の日を覚えての礼拝です。花は、神の聖なるご性質をよく表現している気がし ます。そのあざやかな色彩も、神の聖と栄光を証しています。創造主は植物や花を通して その愛の豊かさを示しておられます。預言者イザヤは、大輪の花のような人物でした。彼 は常に聖なる神を畏敬して生きました。神に絶対的な信頼を寄せ、花のようにまっすぐに 天に向って咲き、従順な信仰を貫きました。神を畏敬するとは、ただ、罰を恐れて、消極 的にビクビクして歩む事ではありません。そうではなくて、罪赦されたことを感謝して、 高らかに神を讃美して歩むことです。この畏敬の念が、人間を自己嫌悪や堕落した生活か ら立ち上がらせ、かけがえのない存在とするのです。「神の聖なる力はすべての汚れを焼き 尽くす炎である」(エフドキ−モフ)とある通りです。私達の畏敬はこの聖なる神に向けられ ます。「表現し得ない神秘、すべての被造物を超える神秘…常ならざるもの、日常から遠く 離れたものである」(R・オット−)とあります。まさしく聖は神の中にあります。また、「 聖」は「罪からの分離」を意味します。神は私達を、罪の呪いからから分離し、罪が赦された 者とされました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面 にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記7:6)とありま す。さらに「聖」は私達を「イエス様に似た」ものとして成長させます。だれかと比較する ことなく、イエス様のように生きたいと願う時、私達は真理の道を発見します。「あなたが たは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会 とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)とあります。私達は神の聖とい う衣を着ることによって生まれ変わり、自由となって人に対して謙り、喜んで仕える事が できる者となるのです。



2002年6月16日

 ダビデに見る畏敬の心

牧師 犬塚 修

 主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょ う。天に輝くあなたの威光をたたえます。詩篇8:2

 ダビデは傑出した軍人、王、詩人でした。しかし、何よりも強く感じることは彼が神に み前に立った謙遜な信仰の人であったという事です。自分の罪深さをだれよりも知りつつ、 深く悩むダビデ…しかし、彼は自分の魂を、暗黒のどろ沼に沈ませる事を否定し、目を天 に向けます。そこには、無尽蔵の神の恵みがあふれていて、深く神を畏敬せずにはおれま せんでした。美しい星雲、月の光、太陽の輝きなどは神の創造の壮大さと崇高さを現して います。そして、彼は人間の卑小さについて思索します。「そのあなたが御心に留めてくだ さるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてく ださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただか せ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(5〜7 節)このようにダビテは、神の偉大さと人間の小ささを調和させた人でした。私達の罪の解 決はどこにあるのでしょうか。それは、天を仰ぎ、栄光の神への畏敬の念を取り戻すこと にあります。私達は神秘的なものに対する畏敬の心を失いつつある気がします。とりわけ、 神に対する真摯な応答が大切です。しかし、もし、私達が神を無視するならば、不幸を作 り出すようになるでしょう。神を畏れない生き方は、自分を独裁者とします。もはや、畏 れる者など存在しないのですから、横暴になり、ますます非人間化に拍車がかかるでしょ う。それは、奈落の底に突き落とされるような滅亡の道です。今、私達はもう一度、悔い 改めねばなりません。ドイツの宗教改革者M・ルタ−は生ける神の臨在にふるえおののき ました。そこから新たな変革が生まれたのです。



2002年6月23日

 アダムの畏敬

牧師 犬塚 修

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主な る神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいる のか」
創世記3:8〜9

罪を犯したアダムとエヴァは神の御顔を避けて、木陰に身を隠しました。恐ろしくてそう せずにはおれなかったのでしょう。私達は正しいことをしている時は、正々堂々と顔を上 げていることもできますが、一度、大変な過ちをしでかしてしまうと、精神的に動揺し、 立ち直ることが中々できません。人間は弱いものです。行いで失敗すると、急に自信を失 います。しかし、神はそんな彼らにみ声をかけられました。「どこにいるのか」と。アダ ムの逃避行の中には、彼の人生観が隠されている感がします。それは、自分の行いの是非 によって、価値が決定するいう見方です。つまり、罪を犯した自分は生きる資格がないと、 思い悩んだのです。このような生き方は私達にとって、自殺型の人生観になっていきます。 善を行っている自分しか受け入れることができないからです。しかし、主は「あなたは何 をしでかしたのか」と問われませんでした。そうではなく「どこにいるのか」と彼の存在 の居場所を尋ねられたのです。その時、アダムは「主よ、ゆるして下さい。私は罪人です 」と悔い改めたならば、どんなにすばらしい道が開かれたことでしょう。ところが、彼は 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸で すから」と答えました。彼は生きるためには、無罪という立派な衣を着ていないと、生き る資格がないと思っていました。しかし、主はそうではなくて、裸のままでも良いと思わ れていました。畏敬とは、ただ主を恐れることではありません。そうではなくて、主の赦 しに感動し、その恵みに圧倒されて生きることです。



2002年6月30日

 神を畏敬して生きる

牧師 犬塚 修

 主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように、ヨセフの家に襲いかかり、火 が燃え盛っても、ベテルのためにその火を消すものはいない。
アモス書5:6

1945年7月16日、アメリカの二ュ−メキシコ州の砂漠に、この世のものとは思われ ない巨大な閃光と不気味な雲が天に生じました。原爆の誕生でした。その現場にいた一科 学者が叫びました。「あぁ、神よ、私たちはこの世界に地獄を作ってしまいました!」事 実、その後の歴史は言うまでもありません。広島と長崎に落とされたこの小さな悪魔は、 数知れない人々の命を一瞬のうちに奪い去り、生き残った人々の一生も台無しにしたので す。もし、この歴史に「もし…」という一語が許されるならば、だれかが「この行為は人 間の大量殺戮をひき起こすので、即刻、中止すべきだ。この戦争は必ず終る。しかし、も し原爆を造ったならば、人類は絶滅の道に突き進むだろう。今こそ私たちは神を畏れねば ならない」と訴え続けたならば…そのあとの歴史は、全く違った世界になったことでしょ う。英知を誇る天才科学者も、激しい時流に飲み込まれ、正しい判断ができなかったので す。彼らはいろいろな情報に心が乱されて、考えすぎていまい、自分達の実験がどんな恐 怖をもたらすかについて、無感覚になっていたのでしょう。私たちもそうなる危険性が絶 えず、あります。自分の行いが、もしかして、人たちを不幸に陥れる原因になるかもしれ ないという畏れの念を持つ事です。また、神に弓を引く高慢な行いではないかと謙虚にな る事です。「的外れ」(罪の意味)の生き方をしないために、私たちがとるべき道は心を開い て、生ける神のみ声を聞く事です。「神よ、私は何をすべきでしょうか。」と真剣に求め 祈る事です。その時、愛の神は、新しく救いの道を指し示されるでしょう。私たちは聖書 から神の言葉を聞いて生きる時、人間としての良心を取り戻し、豊かな可能性、尊厳、謙 遜さを回復していくのです。まだ手後れではありまぜん。今日は神と出会う時です。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(聖書)


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