巻頭言
2001年6月


2001年6月 3日

「神と人との交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆる事について、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である 神に感謝しなさい。(エフェソ4:18〜20)

今月は「賛美月間」でもあります。神と私達との交わりは祈り、み言、賛美によるものです。主を 賛美する時、私達の霊は主に向けられ、喜びと感謝に満たされます。「だから、わたしたちは落胆し ません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日 々新たにされていきます。」(第二コリント4:16)「外なる人」(心や体)は疲れて弱り衰えていくことが あっても、「内なる人」(霊)はリフレッシュされていきます。賛美は嬉しい時だけにするものではあ りません。どんな厳しい状況の中でも生まれます。新生讃美歌170番の「いつくしみ深き」は愛 する友の死という悲しみを経た後に、生まれた曲でした。万一、自分にとって嬉しくない出来事が 起こっても、それを感謝する事です。しかし、どんな事も喜ぶということは人間の力や努力では不 可能です。ただ聖霊の導きによって始めて可能となります。「これがゼルバベルに向けられた主の 言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」 (ゼカリヤ4:6)預言者のエリシャは人の目に見えないものを洞察する信仰の人でした。彼は強敵の アラム軍に自国が取り囲まれるという絶体絶命の状況下にあって、なおも平安を失うことはなか ったのです。人々は恐れ、おじまどいましたが、彼は動揺や不安を克服していました。なぜか。 それはイスラエルを取り囲んでいる天の圧倒的な軍勢を信仰の目で見たからです。「主よ、彼の目 を開いて見えるようにしてください。と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車 がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」(第二列王6:17)私達もエリシャのように、深く神と 交わりを持ちたいものです。 




2001年6月10日

ペンテコステの恵みから

牧師 犬塚 修

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るよ うな音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分 かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせ るままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:1〜4)

6月3日のペンテコステの記念日から一週間がたちました。ペンテコステとは、上記にありま すように、イエス様の昇天後、使徒達に起こった奇跡的な出来事を意味しています。彼らは、 恐れとおののきによって、精神的にも信仰的にも打ちのめされていました。ところが、この ペンテコステの日から、彼らが一大変貌を遂げ、命知らずの大胆な使徒と変えられたのです。 この時から使徒達による原始教会は産声をあげ、キリストの愛による世界宣教の火ぶたが切ら れました。使徒達が人間的な努力を最大限に払っても、10しかできなかったことを、聖霊の 力によって、いつのまにか100もできるようになったのです。そこには生きた聖霊の働きが ありました。そのようなすばらしい出来事は、現代でも起こり得ます。従って、私達はひたすら、 聖霊の到来を熱心に、待ち望みたいものであります。どんなに惨めで絶望的な自分であっても、 聖霊の豊かな取り扱いを受けたならば、その人はすばらしい神の貴い器に変わっていくのです。 ペンテコステは個人に起こったのではなく、「一人一人」−即ち教会での交わりの中で起こっ たのです。その事を思いますと、共に週日に共に集まり、愛の交わりを持つ事はすばらしい恵 みであり、主を待望する聖なる一時である事が分かります。私達は愛の交わりを続ける事で、 霊が砕かれていきます。その中で真の悔い改めをなし、常に新しい気持ちで再出発をするよう に導かれるのです。「主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたし の言葉におののく人。」(イザヤ62:2)聖霊の火を熱く求め続けましょう




2001年6月17日

真理と自由

牧師 犬塚 修

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8;32)

ギリシア語では、「真理」とは「ありのまま、誠実、まっすぐであること」です。ゆえに、 真理を知った人は自分の生き方を率直に見つめ直し、心から悔い改めるようになります。 そして偽りや嘘、汚れ、悪しき欲を忌み嫌うようになります。それは救われた者の証しで す。また裸のままで生きられる幼子のような自由人になります。野の花はまっすぐに天に 向って咲いています。花は他の植物と比較される事なく、その花らしく、のびのびと育っ ています。私達は一輪の花から多くの事を教えられます。ビクビクと生きるのでもなく、 また、自己中心的で、わがままな気持ちに固執して生きる事でもなく、ありのままの姿で、 主に向って生きる事を教えてくれます。そして恐れの心にも打ち勝つようになります。 真理とはイエス・キリストの事です。ですから、この信仰を持つ時、私達は恐れや不安 から少しづつ解放されていきます。主は信じる者の近くにいて、天の知恵を与え、苦し みから救い出されます。私達にとって恐ろしい敵は私達の心の中に潜んでいる焦燥感、 不安感と恐怖感などです。「もう無理だ。」という自己否定的な敗北的感です。私達はい つのまにか、この世から無抵抗を強いられ、恐怖心を縛られている時はないでしょうか。 敵は実は大したものではないかもしれません。しかし、恐れるとその何倍にも大きな力と 見えてしまいます。しかし、真理に立つと相手の姿がありのままに見えてきます。そして、 賢明に戦う勇気が与えられます。決して諦めてはなりません。主は奇跡的なみわざを現され るでしょう。私達の信じるお方は驚くべき力を持っておられます。思い切ってあきらめや絶 望感、不安感を十字架にかけてしまう事です。そして、大胆に決断し、敵に向って戦いを挑 み、明るい未来と自由を勝ち取る事です。「わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友ア ブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。 あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」(イザヤ41:8〜9)




2001年6月24日

キリストを呼び求める

牧師 犬塚 修

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちに とって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(コリント一1:30)

重度の障害を身に負いつつ、珠玉の詩を綴られた「瞬きの詩人」水野源三さんの 作品に次のものがあります。 
 
事あるごとに

わがうちには知恵がない      われなれば事あるごとに
血したたる道のみ行かれた   主イエスを呼びもとめん
わがうちには愛がない      われなれば事あるごとに
命すて愛示された         主イエスを呼びもとめん
わがうちには力がない      われなれば事あるごとに
悪の力うち負かした        主イエスを呼びもとめん
普段は善良な人が突然怖い人に変わる事があります。しかも責任感の強い立派な人がそ うなるのです。なぜでしょうか。それは、高い目標を掲げて、それに向ってがむしゃらに ガンバリ、自力や我力で実現しようとするからです。中々うまくいかないと焦り、自分を 見失ってしまいます。そして次第に「目的のためには手段を選ばず」という考え方に支配 されていきます、待つ事、思いやり、暖かさ、優しさは死んでいきます。私達は自分の努 力やガンバリではなく、主の義と聖と贖いの豊かさに目を注ぐべきです。「〜しなければ ならない」式の律法的な窮屈な考え方から離れ、すべてのことをイエス様に任せてしまう 事です。そしてイエス様の中に満ちている;霊的な力によって生きて行く事です。水野さ んは自分の中に何のないと言い切れるほど、信仰の透徹した人でした。それゆえにその生 き方は美しく,幼子のような無私の魂を持つ人として信仰を全うされました。自力に頼ら ない道には平安と喜びの種がこぼれます。



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