巻頭言
2000年6月


2000年6月 4日

「聖霊による伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、 しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。…キリストの福音をあま ねく宣べ伝えました。(ロ−マ15:19)

信仰は植物の成長に似ています。種から根、茎、葉、そして実となっていきます。 その成長に不可欠なものは水であります。もし、水がなければ、植物はすぐに枯 れてしまうでしょう。

私たちの生活にとっても、どうしても必要なものは、いのち の水である聖霊です。聖霊を求める時、私たちは豊かな伸びを示すようになります。 そして、聖霊は私たちに伝道する力を与えて下さいます。
また伝道とは、主のみ心 を実行しようとする喜びの行動です。私たちは救われた喜びを人に伝えることで分 かち合う時、新しい自分に成長していきます。苦労しながらも熱心に伝道してい くとすると、ふしぎに喜びと平安が与えられます。

バッハは神の栄光をあがめる 目的で作曲をしました。そしてこれらの作品は彼にとって生きている証しとなり、 またダイナミックな伝道となりました。ヘンデルも同じでした。彼は貧窮の中で 「メサイヤ」という名曲を生みましたが、これは神の愛を人々に伝えたいという伝 道の熱意の賜物と言われています。信仰の人パウロは人一倍、伝道に命をかけた 伝道者でした。そして伝道は神の霊の力によると言っています。

私たちは聖霊によ って伝道する時、最高の幸福感を感じることができます。それは、私たちがもはや、 自分のために生きているのではなくて、主のために生かされているからです。伝 道するのは私ではなく主です。この主が伝道のために私たちを用いられます。ロバ の子は無力でしたが、イエス様をお乗せする事で、エルサレム入場の際に、栄光 に包まれました。私たちも主を紹介するロバの子に似ています。大胆に伝道に励み たいものです。 




2000年6月11日

「私が、神様に会ったのは…」

牧師 犬塚 契

それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。 コリント二 13:5

先日、東海大学で「ゴスペルコンサート」が行われ、学生に交じって参加した。最近では、 テレビでも、ラジオでも、ゴスペルブームで時々紹介されている。そのせいか、30人くら いの学生が集まっていた。賛美してくれたのは韓国からの留学生で、実に生き生きとして いる。宣教師のメッセージまで用意され、コンサートというより、さながら伝道集会のよ うだった。

コンサート後、参加者一人一人に留学生がつき、熱心に伝道。学生に交じった 私にも伝道してくれた。感動したのは、その小さな証だった。「私が、神様に会ったのは 日本に来てからなんです」。そう、語り始めた。「私が、クリスチャンになったのは…」 ではなく、「私が、洗礼を受けたのは…」ではなく「私が、神様に会ったのは…」と始ま った。当たり前のことのようで、当たり前の気がしなかった。信仰の裏打ちがなければ、 「神様と会ったのは…」と切り出し得ないように思った。

「クリスチャンになったのは…」というと「クリスチャン」という大きな輪の中に、一歩足 を踏み入れたという印象を受ける。しかし、「神様に会ったのは…」というと、実に個人的 な神との交わりを意味している。「クリスチャンになる」とは、「サラリーマンになる」とか 「野球選手になる」とかとは、わけが違う。まさに「神に会う」ことなのだ。

旧約時代、人は多くのいけにえを捧げ、幕屋の中で神に会った。イエスキリストの時代、人々 は、まじかに神を会うこと、触ることができた。新約時代に生かされている私たちには、内に住ん でくださる。上記の御言葉は、そう語っているのである。




2000年6月18日

父の日を覚えて

牧師 犬塚 修

苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる 小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。 (イザヤ53:7)

少年時代、私は若乃花勝治の熱狂的なファンであった。「土俵の鬼」と呼ばれ、小さな 体にもかかわらず、豪快な上手投げで、大きな力士をねじ伏せる強さに憧れたもので ある。特に私が感動したのは、この若乃花が最愛の幼い男の子を、事故で亡くしてし まった時、その痛ましい現実にもかかわらず、ジッとその悲しみを耐え忍び、黙々と 土俵に上り戦う孤高の姿を見た時であった。そこに父親の道、否、人間の気高さ方を 学んだ。

旧約聖書にモ−セという人物が登場するが、彼の兄はアロンといった。アロンも愛す る息子を二人も突然失った。「その時アロンは黙っていた」と書かれている。本当はい ろいろと言いたいこと、愚痴を吐きたいことが山ほどあったに違いない。しかし、彼 は何も言わず、ただその苛酷な運命に耐えた。

上記のみ言葉においてもイエス様は十字架にかかられる時、何も言われなかった。何 一つ罪を犯さなかったお方がどうして死に定められねばならなかったのか…それは不可 解としか言いようがない現実と見える。しかし、イエス様はすべてを全能の父なる神に 任せられたのである。また父なる神御自身もひとりごであったイエスを人間の罪の身代 わりとして十字架につけることは、気が狂うほど苦しい決断であったことであろう。

けれども驚くべき無限の愛によって、すべてを耐え忍ばれた。それによって、私たちは救わ れた。沈黙し、何も言わず、ただ祈り続けることは実に大変なことである。だが、ここ に救いが隠されている気がしてならない。現代は饒舌がもてはやされる時代、自己主張の 華やかな時代である。しかし沈黙し、神への一途な信頼に生きる父親、また人間が新しい 時代を創っていく人となると信じる。




2000年6月25日

讃美礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心から ほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イ エス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 (エフェソ5:18〜20)

聖霊に満たされると心は自然に喜びにあふれます。そして讃美したくなります。 当時のクリスチャンはとくに詩編を愛唱したのは、この書には人間の生きる辛さ や苦しみが明確に記され、かつそれらを信仰によって克服していく道が生き生き と書かれていたからです。

またパウロは霊的な歌で語り合う事を勧めています。私たちの交わりが楽しくす ばらしいハ−モニ−をかもし出すためには、自分自身を感謝して受容することが 肝要です。自分の個性は主から来たことを喜びつつ、自分らしく堂々と生きるこ とです。

たとえば、ドという音を出す個性を持った人はその音色に生きるのです。しかし、 その音を余り好きになれず、別の音色を必死で出そうとすると、自分や人とのハ− モニ−も崩れてしまいます。そして次第に生き方がぎこちなくなり、いろいと気を つかいすぎて人間関係に疲れてきます。自分を愛し、またあらゆることを信仰を もって受け入れ、主に感謝をささげる生き方をすることが望ましいのです。

また讃美は感謝という花を咲かせます。讃美すると、古い自分に別れを告げて、 新しい生き方ができるようになります。聖霊の働きでそれが可能になるのです。 自分の進む道が困難であっても、主を信じて前進するならば、主は困難を恵みに 導いて下さいます。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も 広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、 その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13〜14)

主に真実に 従って生きる人には、その先にすばらしく広い花の大原野が待っているのです。



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