巻頭言
1999年5月


1999年5月 2日

み言葉に従う生き方

牧師 犬塚 修

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ1:3,4) 

5月は「み言葉に服従する教会」(スチュワードシップ月間)がテーマです。ナチスという 悪魔的支配の中で、神学者K. バルトは「神の言の神学」を主唱し、忍耐強くナチスと戦い 続けました。これが、恐怖と絶望に打ち勝つ唯一の力であったからです。

「神は言われた。 『光あれ。』こうして光があった。」(創世記1:3)創世記1章が編纂(へんさん)された 時代も、バビロン大帝国の支配の中にあった時と言われてています。その国で捕囚とされた イスラエルは余りにも無力な存在でした。しかし、彼らの中には、悔い改めから生まれた 強い信仰がありました。それは、神の言を預かった神の民としての使命感でもありました。 「この世界はカオス(混迷)と深淵で震えている。しかし、神は生きておられ、ご自身の み言によって暗黒の世界に光を与えられる。」という信仰宣言をしたのです。それは、 人類史上、大きな第一歩となりました。以後、イスラエルは幾度も、民族的苦難を体験 していきますが、不屈の精神と信仰の故に、世界史に偉大な足跡を残すようになりました。

「苦難ダコ」という言葉があります。これは多くの苦しみの故に、魂に忍耐を培うタコが でき、それによってたくましい精神の持ち主となる意味です。

ヨハネは、「万物は言に よって成った」と力強く書きました。私たちに不可欠なものは、神の言に対する服従で あります。服従する者は主の光の中を歩むのであります。



1999年5月 9日

母の日を迎えて

牧師 犬塚 修

そしてあなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあ なたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、 わたしは確信しています。(テモテへの手紙二1:5) 

母の手は
菊の花に似ている
かたくにぎりしめ
それでいて
やわらかな母の手は
菊の花に似ている
星野冨弘

使徒パウロの良き助け手がテモテでした。彼はすばらしく純粋な信仰の持ち主 でした。私たちの教会の各会にもテモテのような人たちがいます。その人たち は自分で気づかないでも、菊の花のように香しい香りを周りの人々に放ってい ます。すばらしいことです。そして、その信仰は、長年の信仰の積み重ねの中 で育てられてきたものです。テモテは信仰家族の三代目にあたります。

それは 血縁としての家族のことだけではありません。教会は神の家族です。母のよう な菊のような存在が教会の若い人たちの信仰を、知らず知らずの内に培ってい るのです。カ−ネ−ションも菊も、天に向かってスックと立っています。その 姿は凛として気高いものです。また、その花びらは、大きくやわらかいです。

どんな重荷も包み込む暖かい愛の手です。「母がその子を慰めるようにわたし はあなたたちを慰める」(イザヤ書66:13)と主は言われました。母の愛が一番神の 愛に近かったのです。主が与えて下さったすばらしい母たちに感謝し、その絶え ざる労苦と涙に心から感謝を表しましょう。



1999年5月16日

み言に生きる

牧師 犬塚 修

主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人 その人は流れのほとりに 植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その 人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編1:2〜3) 

私たちは木を見つめると、心が和みます。風雪に耐え、ジッと沈黙したまま、 毎年葉を茂らせ、実を結ぶ木は、信仰者の姿を見事に表しています。詩人は この木を見て、み言に従う人の幸いを高らかに歌い上げています。「年輪」 という言葉は深い味わいを持っています。

木は毎年、年輪を刻みつけて成長していきます。私たちの人生も、日々の信仰 の積み重ねによって深くなり、また広がっていくのです。 「種は芽を出して成長 するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる のであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」 (マルコ4:27,28)

木は自分の力で一生懸命頑張ってはいません。なすがまま、あるがままです。しかし、 着実に成長していきます。炎天も大雨も木にとって喜ばしいものではありませんが、 のちになるとそれによって義の実を結ばせるものとなります。その成長のため、私たち がなすべきことは、み言を愛し、暗唱し、いつも口ずさむことです。否定的で暗い 気分に襲われそうになる時こそ、み言は必要なのです。 「太陽は闇に、月は血に変わる。 しかし、主の御名を叫ぶものは皆、救われる。」(ヨエル書3:4,5)

木のような静けさ を心に持ち、平安と確信の道をまっすぐに進んでいきましょう。天のゴールを目指して…。



1999年5月23日

ペンテコステ礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたた ちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2:17) 

旧約の時代には、神は聖霊(神の霊)を特定の人々に注がれました。イザヤ等信仰の 巨星たちが、燦然と輝いていたのはすべてこの聖霊の力によりました。だが、彼ら のように特別な使命を帯びた者達以外には、この聖霊は下ることがなかったのです。

ところが、新約の時代に入ると事情は一変しました。神は「すべての人に注ぐ」と宣 言されたのです。つまり、キリストを信じ大胆に従う者は皆、すばらしい神の預言 者としての任務を与えられたのです。何という恵みでしょうか。まだ未熟な若い息 子や娘が、預言者エレミヤやミリアム(モ−セの姉)のような霊的力で伝道に励むと いうのです。これがペンテコステの恵みです。

パウロは「そこではもはや、ユダヤ 人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あな たがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28)と書 いています。ペンテコステ以来、神の言を宣べ伝えることは、どんな人でもできる 喜びのつとめとなりました。万一、自分が口ベタと感じたら、たとえ黙っていても 証しの文ならばつづることはできます。また、もし、それも苦手なら、何か他のもの を用いることもできます。ミレ−は絵筆を握って主を証ししました。

私たちは無に 等しい弱い者ですが、聖霊が内に住まわれると、ふしぎな力と生きる勇気を持つよ うになります。「私はイエス様を世の人々に伝えたい!」と心から願うならば、道は 開け、自分が今悩んでいる問題さえも、次第に霧散し、信仰の確信に至るのです。

1999年5月30日

アブラムのように

牧師 犬塚 修

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。   (創世記12:4) 

ある日、75歳の老人アブラムに主の言葉が臨みました。「あなたは生まれ故郷、 父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい。」という主の言葉を聞きました。 彼は驚きました、「なぜ、この私が…」色々な事情を考えれば考えるほど、 出発は無謀に思えました。「それは若い時ならできるかもしれないが、今の 私では難しすぎる」とも思い込んだことでしょう。しかし、彼はついに思い切って 決断します。そして、一路、カナンの地に向かって家族を引き連れて旅立ち ました。そして、それは、実は大いなる祝福の行路となりました。

主に聞き従い、それによって主が共におられる人の人生は、恵みの露が 滴り落ちるのです。父テラも主の命令を受けて、ウルの地を出て、ハランまで 来ましたが、思い半ばのままそこで死にました。しかし、息子アブラムは 主の言葉に思い切って従いました。それは、「清水の舞台から飛び降りる」 ような決死的な決断であったかもしれません。しかし、この小さな一歩から 素晴らしい人生が始まりました。

主は従う者を決して見捨てられません。 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、…地上の氏族 はすべてあなたによって祝福に入る。」(3節)アブラムの「エイ!」と従う その思い切りの信仰は見事です。たとえ、何が起ころうとも、主の導きを確信し、 「ハイ!」と従った人でした。私たちも従うとき、「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、そ の民を羊のように養われる。彼らは王冠の宝石のように、主の土地の上で高貴な光 を放つ」(ゼカリヤ書9:16)者とされます。

将来が暗黒に見えてしまう時も、 常に全能の神を信じ抜いたアブラムを思い出したいものです。

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