巻頭言
2023年5月


2023年5月7日

「神の恵みにより無償で義とされている」

犬塚 契牧師

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。            <ローマの信徒への手紙3章21−31節>

 だれもみな罪を犯したゆえに、バチがあたって不幸になっていますが…だとピンとくるものがある気がします。または、罪ゆえに見るも無残になっていますとかだと恐ろしさが増します。けれども、パウロは「神の栄光を受けられなくなっています」と書き送ります。えっ、それってぇ、大事ィ?そんなぁ、残念!って気にならないんだけど…。きっとボーっと生きているのでしょう。…というより、自分のことに囚われ、逃れられず、終始しているのでしょう。それで随分と苦しんで生きています。愛する対象、賛美する対象を失った者の固執するところはきっと明らかで、なんだかとても渇くものです。我を忘れるようなものがあれば、なんだか救われます。神の栄光とは私たちの救いの出来事です。きっと歌詞にメロディをつけて歌うのも手を組んで頭を下げて祈るのもみなで聖書をひろげる作業も救いへとつながっていく事柄です。温泉やグルメやマッサージでは癒し得ない部分があるようです。造られた者ゆえにうめく部分、うずく部分があるようです。それはとても悲しく残念な部分ではなく、神の御想いとつながるために開いた穴であり、パイプなのでしょう。神をじゃけんにし、亡き者にした時代ですが、何かおかしいと感じています。地域に建てられた礼拝堂は貴重です。礼拝の時間は貴重です。改めてご一緒に。



2023年5月14日

「信仰によって生きる」

犬塚 契牧師

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。          <ローマの信徒への手紙5章1−11節>

 「〜によって」という言葉が何度も繰り返されていますから、何か拠り所となるようなことが強調されて書かれているのでしょう。「神との間の平和」の拠り所、「神の栄光に与かる希望」の拠り所…それらの保証は、「信仰によって」でした。パウロの自信ありげに書かれたそれらと反比例して、なんだか途端に凹んでいくのは、それほど信仰に自信などないからだと思います。「信仰…なんぼのもんだろうか」と心にこだましています。よくよく「あぶり出し」てみなければ、ほとんど白紙に近いようで、まるでなにも描けてなどいないかのようです。はぁー。体温もCo2濃度も血中の酸素飽和度も成績も体重も…数字で表されることに慣れたので、数値化されない信仰が基準を失って、不安が募るのかもしれません。しかし、弱いもの、細いもの、淡いもの、そんな小さく残ったものを大きく喜ぶ神がおられるように教えられています。からし種の信仰を見つけられる神がおられる、そう教えられています。さらに言えば、人が持っているものが当てにされて構築される平和や義なる関係ではなく、むしろ主イエスにすがる以外にないお手上げが信仰に呼ばれるものに思えます。5章は、罪人であったときに示された和解があるとすれば、なおさらこれからの罪をも赦し、完全に救い出してくださるという希望を示しています。それは法外で本当は両手で受け取るに有り余る出来事です。それぞれは、救われたのでなく、救われ続けているのだと知らされる時、心に明かりが灯ります。



2023年5月21日

「キリストにあやかる」

犬塚 契牧師

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 <ローマの信徒への手紙6章1?14節>

 あくなき向上心と探求心と努力と策略とで、なにがしかであることを自己証明しなければならなかった者が、そんな路線から落ちて、落とされて、そこから神の招きを聞いてバプテスマを受ける…。新しい身分を知ります。子よとの声を聴きます。自分で描いた人生設計と離れてしまったけれども、予想外に確かに新しい物語があることを知ります。なるほどこんなところでしか見られない神様の働きってものがあるのだなぁと。なにかつじつまがあうような、不思議に合点があうような。自分では紡ぐことのできない話が続きます。かつての信仰者は歌いました。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。」(詩編119編)神の子との招きがなければ、悲しみは悲しみのまま、不幸は不幸のまま、病は病のままだったはずですが、どうしたものか神は、祝福の基となさると聞くものです。私たちの生涯は待ち望みつつ生きる短い期間のようです。そこでは、悲しみと喜びがいつも隣り合わせで、近いところにあるもののです。満足感とその後ろの限界、曇りない純粋な喜びに滲む悲しみ。成功につきものの妬みと、友情の隔たりに孤独が残り、光の後ろに闇があります。そして、そんな複雑な心の動きを上手に表現することができません。だから、大抵、思っていることと違うようなへんな顔をしてしまいます。どんな命のかけらにも死がいささかも触れていないものなどないようです。そして、そんなことを知らされる中で、なおわたしたちは存在の限界を超えた先にまなざしを向け、待ち望むものとして生きるものになるようです。



2023年5月28日

「望まない悪を行うわたし」

犬塚 契牧師

 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 <ローマの信徒への手紙 7章7‐25節>

 上記、24節と25節の行間にあるものの大きさを想像しています。穴がなくても掘って入りたいほど恥ずかしいとか、知らされたみじめさに打ちひしがれるとか、すべてをリセットしたいような情けなさとか、とても超えきれないと思って死ぬほど落ち込むこともあるものですが、ローマ書を記したパウロの見つめた自らの罪は、さらなる深淵でした。きっと私などは、自分がどんなにか罪が深いかと知らないから、半分目をつむって自分を見ているから、なんとか立って、まともなフリして生きているのだと思います。戦争中の極限に置かれた人たちの証言(庶民が状況下、悪魔にもなる)は、ときどき能天気な自己認識に待ったをかけます。そして、知らされる罪が最もやっかいなのは、神と人との関係を決定的に修復不可能と執拗に告発してくることです。▲「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という問いを真剣に抱き、絶望的にそこにたたずんで、初めて聞こえてくる福音があるようです。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。▲人が切り拓いた救いの道ではなく、想像だにしなかった神の御想いとその具現である主イエスキリストの受肉、生涯、十字架、復活、昇天が残されていました。願わくは、なおその出来事に生かされるものでありたい。しかし、24と25の間を行きつ戻りつするのものキツイなぁ。もう少し「安かれ」との声に安堵を覚える子でもありたいのです。




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