巻頭言
2019年5月


2019年5月5日

「代わりのないもの」

犬塚 契牧師

人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、… <ガラテヤの信徒への手紙1章1-10節>

ガラテヤ人への手紙の始まり。冒頭の一節。両手で大切に触るかのように、ゆ―――――っくり読むと、「使徒職」をいつも疑われたパウロの痛みが滲むでしょうか。「使徒」なるべきは、イエスキリストに直接出会い、歩き、過ごした者に限ると理解されていたようです。ペトロは使徒言行録で語っていました。「いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」パウロは、生前の主イエスを知らず、またキリスト教の迫害していた時期もあります。「使徒」を名乗るに不利でした。それでも、パウロの中には、神によって立てられたという確信と自信がありました。ん?いえ、それは正確ではないと思います。むしろ、神によってしか立てられ得ない破滅があったのではと。1節の、パウロの姿は丸裸です。何も守るものが見当たらない様子です。そこには、虚栄も着飾りも気取りもありません。世を生き抜くには、とても不安です。箔も経験も学識も後ろ盾もひけらかしたい所です。しかし、神のみ。▲ガラテヤの諸教会に、福音と共に律法の順守も付け加えようと立派な伝道者がやってきたようです。それもそうだと彼らは階段をまた昇り始めました。「比較」という病の蔓延は、驚くほどのスピードを持ちます。広がる世界には、段差が生まれ、線引きがされ、人々は共に座ることができなくなったのだと思います。もう、共に食することのできなくなる国と一緒に座れなくなる教会は、主イエスを王とする神の国からは遠くなるでしょう。それはもう福音ではない、イエスキリストではないのです。▲人との距離を思って案じています。人付き合いが苦手です。距離感がわかりません。開くまで時間がかかり、開くと依存へと結びついていきます。自分自身に提案をしています。主イエスキリストを間に挟むということです。遠くあろうとも親しさの中にあろうとも、主イエスに購われた私とあなた。罪人同士であり、許された者同士。その距離感。「人々からでもなく、人を通してでもなく…」。



2019年5月12日

「神の恵みを無にしない」

犬塚 契牧師

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。   <ガラテヤの信徒への手紙2章11-21節>

「律法」には、両方に刃があってよく切れるようです。自分が守れたと思えば、守れない人々を切り、自分が守れないならばその刃は自分に当たります。神に対してどう生き得るのかという倫理を伝えたはずの律法は、傲慢と卑下、格差を生み出しました。「律法主義」があるところは、人と人が共にいられない場となりました。そして、そんな場所は実に作られやすく、広がりやすいのです。▲中高生の時に「ヤマアラシのジレンマ」という言葉を知り、半ば誇らしげに母に伝えました。どうしても寒いから近寄る、しかし、近寄りすぎると相手の針があたる…と。母には既知の言葉のようでした。そして、解決策も教えてくれました。「…針を折ればいいのよ」。針とは自我でしょうか、欲望でしょうか、傲慢でしょうか…そんな解決法を聞いてから20年は経ちました。針が折れたことがありません。私の針は、主イエスを刺し続けています。▲律法とは、「それで、あなたはどう生きるか」という倫理規定でした。新しい律法は主イエスキリストの血が流れ、肉が割かれて示されました。神の子のこの姿によって、私は負けることも、失敗することも、理不尽を得ることも、なお愛することも知り得るでしょう。信仰のかけらを心に落とされた者として、そうありたいと思うのです。「生きているのはもはやわたしではありませえん。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」アーメン。



2019年5月19日

「神と小羊の御座から」

犬塚 修牧師

「神と小羊の御座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」   <ヨハネの黙示録22章1〜6節>

イエス・キリスト(小羊)は父なる神と同格である。古代の神学者アタナシウスとアリウスは、この真理を巡って壮絶な戦いを繰り広げた。その激闘は43年にも及ぶものとなった。教会は「イエスは神である」と命を懸けて告白する群れである。▲イエスを神と告白する人生−イエスを信じる人は、ある時は試練で苦しむ時がある。しかし、全てが主のご支配の中にあると信じ、現実をそのままに受容する事が大切である。「これもまた、万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる」(イザヤ書28:29) とある。全てが主の計らいの中にあると悟ると、心に神の平安が宿るのである。アブラハムは愛息イサクを捧げるように神から命じられた時、淡々と従った。そこには深い霊性と、透徹した心の静けさが溢れていた。彼は日頃から、自分に与えられたもの全てを、主にゆだねる決意で生きた人と思えてならない。人は悲しい出来事が起こると、動転し、感情を露わにしがちである。だが、彼のように淡々と、孤高の王者のごとく静かに生きる姿に教えられる。▲神の優しさ―「キリストを着る」(ガラテヤ3:27)は、主ご自身が、私達の身丈に合わせて下さる事を意味している。主は私達の最良の共感者、同伴者、親友である。▲水晶のような川を見て―光の画家モネは、太陽の光を七色に分けて「睡蓮」を描いた。彼は刻々と変化する光の幽玄さに魅了された。同じように、神のなさるみ業は、時の流れと共に、豊かに変化していく。神のみ業は日々、変化に富み、雄大である。エゼキエル書47章に「命の水の川」の記述がある。この川は聖霊の働きを意味していると言われている。それによると、神殿から流れ出る水が、次第に溢れ、エゼキエルのくるぶし、ひざ、腰と増していく。彼は川の中を歩いて行くが、ついに大きな川となったので、歩行できなくなり、泳がねばならなくなった。これは、主にゆだねる生き方の勧めである。命の川は「死海」にまで達し、濃い塩水を清め、ついに生ける水に変えてしまう。主に従う人には、聖霊の恵みが増加して死を飲み込むまでになる。そして、ついに神の栄光に包まれ、全てが水晶のように輝くのである。



2019年5月26日

「キリストが形づくられ」

犬塚 契牧師

 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、…わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。    <ガラテヤの信徒への手紙4章8-20節>

神様は、私の都合に従う必要はないのだということに気付くまでに随分と時間がかかりました。神がいるのならなぜという求めの裏に、神を操作しようとする私の傲慢が影を潜めていることになかなか思いが至りませんでした。神を操作するリモコンはなかったのです。そして、私たちを取り囲む出来事の如何に関わらず、それでも神は神であることが、どれほどの慰めであるのかを少しずつ味わうようになりました。「神を知っている」とは、人の虚勢のわずかばかりです。むしろ、神に知られていること、覚えられていることこそ、畏れあることでしょう。▲ガラテヤの教会を覆った誘惑、律法に戻るとは、神の手のひらに人間みずからが名を刻むような行為に思えます。主イエスキリストを彼方に追いやり、「取るに足りる」証拠を、神に提示しようとします。しかし、パウロがガラテヤの人々に提示したのは、むしろ「弱くなったことがきっかけで」(13節)広げられていった福音でした。上記聖書箇所、「もう一度あなたがたを産もう」とは、男性の言葉とは思えない不思議な表現です。子どもの出産の日を思い出し、それは母と子の命がけの作業だと感じました。お互いの命を削って産まれてきます。不安と期待があり、神秘があります。子を腹で作ったのは私だと誇る母に出会ったことがありません。キリストが形作られるとは、瀕死の人の有り様にこそ出来上がることのようです。「語調を変えて話したい」パウロの言葉は、共に途方に暮れ、共にキリストをいただくものでした。




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