巻頭言
2018年5月


2018年5月6日

「自由に不自由を生きる」

犬塚 契牧師

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 <コリントの信徒への手紙T 8章>

ザ・ビックとヨークマートとダイエーと生協と…。あちこちにあるスーパーを梯子して、肉と野菜と魚を買うことができる時代ではありません。肉のほとんどは、一度コリントの町にあふれた神々への供え物だったのでしょう。犠牲として捧げた動物の一部を燃やし、残りは儀式を司った祭司と奉納者が分けたようです。大きな祭事の犠牲には、祭司だけでは消費できずに、市場に出されることもありました。神々の祭場がそのまま晩餐会の場となり、コリントのクリスチャンもかつてのつながりで招待されることも珍しいことではなかったと思います。また、あちこちに諸霊が生きると理解されていた世界の中で、偶像に供えられた肉を通して魂が汚されることになりはしないかという恐れもあったことでしょう。罰が当たる、たたられるという神々の嫉妬は、リアルな現実だったと思います。質問を寄せられたパウロの確信は6節に書かています。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ…。」にも関わらず、知らぬ人、良心が痛む人、弱さを覚える人のために、「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」とまで書いて8章を締めくくるのです。▲偶像に供えられた肉の知識において、無知を責め、「真理」を知っているか信じているか!という伝え方ではありません。何よりも神が知ってくださるのだという愛の深淵に触れて、人はようやく目がひらいていくものなのでしょう。



2018年5月13日

「主の晩餐」

犬塚 契牧師

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。   <Tコリント11章17-34節>

ファリサイ派の人々には、目に見えない高い壁があり、日常生活がそれによって支配されていたようです。律法を守ることのできる義人、守り切ることができない汚れある地の民、そして、卑賎な仕事(皮なめし、徴税人)をする罪人。近くに生きてはいても、交わりの接点を見出すことは困難だったと思います。しかし、主イエスキリストは、壁をすり抜けるかのように誰とでも食事を共にしました。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ7章)という中傷がありました。宗教的な汚れは共に食卓を囲むとうつると理解されていましたので、主イエスの行動は大胆で驚きでした。共に食すとは、ただ腹を満たすためでなく、愛するという行為でした。ここに教会の愛さんの源を見たいと思います。思い思いに好きなだけ食べたいものを食べる自由は、愛することの自由へ拓かれていきたいと願います。そして、愛さんは主の晩餐へと繋がっています。4世紀までは、愛さんも主の晩餐も一緒でした。しかし、コリント教会では、裕福な者同士が贅沢に持ってきては分けることなく食べ、酔い、仕事終わって到着した貧しい者がそれに共に与かれない事態があったようです。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(29-30節)「主の体」とは教会ことでしょう。ここのパウロの「おどし」は、強烈で切実で深刻です。12弟子ではないパウロが「わたし自身、主から受けたもの」と受け取っていた主の晩餐は、主イエスからのあり得ないはずの招きでした。



2018年5月20日

「もしも私がこの世にいなかったら」

関野 祐二牧師

ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい <ルカによる福音書19章5節>

人の存在価値を決めるのは自分自身でしょうか。他者でしょうか。ザアカイはエリコの町の徴税人で金持ち。同胞ユダヤ人から税を取り立ててローマ帝国に納め、ピンはねで私腹を肥やす嫌われ者でした。噂の有名人イエスが町を通りかかると聞きつけ、背が低くて群衆に阻まれ見えないとわかるや、突き動かされるような情熱で道路沿いのいちじく桑の木に登りました。その場所に来たイエスは上を見上げ、驚くべきことばを。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、これは「必ず〜しなければならない、〜することになっている」という神の必然とご計画に用いられる用語。何としてもあなたを救い、祝福しなければならない、だからあなたにわたしの身をあずけよう、と。これ以上に、ザアカイの存在価値を認める行為とことばはないでしょう。映画「素晴らしき哉、人生」で、大金を紛失し人生に絶望したジョージを助けた天使は、ジョージ不在の仮想世界を恐怖体験させ、いかに彼の存在が多くの人々の祝福になっていたかを知らせます。人生、捨てたものではないのです。無条件で存在を肯定されたザアカイは、喜んで家にイエスを迎えると、命じられたわけでもないのに自分の罪の償いをし始めます。自分のような者にご自身をあずけてくださったイエスに本当の自分を知らせ、受け止めてほしかったのです。イエスの救い宣言は、罪深い者や無価値と思う者の存在肯定。これこそが「義と認める」ことであり、イエスは罪の刑罰を十字架で代わりに受けることにより、神の前でザアカイの存在価値を回復するため、エリコからエルサレムに向かう途上だったのです。今やこの救いは十字架と復活の完了により、信じる者すべてに拡大しています。自分のためのナンバーワンではなく、神と人のためのオンリーワン、それが私です。



2018年5月27日

「信仰、愛、希望の道」

犬塚 修牧師

「あなた方が信仰によって働き、愛のために労苦し、…・希望をもって忍耐している事を、私たちは絶えず、父である神のみ前で心に留めている」(3節) <テサロニケの信徒への手紙T1章1-7節>

(1)観念主義と信仰……信仰は、心の中の思考や意思の発露ではなく、果敢な行動を促すものである。観念論的信仰は、空虚なものとなる危険性がある。そこには力や命は宿らない。行動へと至らないのは、己の中に潜む我の強さ、欲望、思い煩いなどによる。「行いの伴わない信仰は死んでいる」(ヤコブ書)。主の命令を軽く考えて、不従順となってはならない。アブラハムは、最愛の子イサクを捧げるように、神から命令された。それがいかに厳しい命令であったか…。しかし、彼は毅然として、その現実を受け入れ、ただ黙々と主に従った。まことにアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるのにふさわしい。▼(2)数量主義と愛…私たちは神の祝福を、数量の多さ、成長神話、効率・結果主義などの「目に見える」現象で、判断しやすい。しかし、愛は人の目に見えない労苦によって結実していく。どうしようもない重い現実の中であっても、主と共に、その重荷を担って生きる事である。特に、愛は近しい人への特別な関わりや慰めや苦労を厭わない事でもある。「この状況は、どうしても受け入れられない」と呟くのではなく、主の犠牲の熱愛を思い起こし、苦労を引き受ける事である。それは自分の我力によらず、聖霊の偉大な御力による。愛とは一人に関わる事でもある。「お互いの向上を心がけ」(4:11)は原意では「一人がもう一人の人を造り上げる」意味である。▼(3)希望の忍耐…これは「主の忍耐」とも訳する事もできる。エマオ途上にて、二人の弟子は、復活されたイエスと出会った。主は彼らの前ではなく、後ろから近づき、同じ歩調でゆっくりと進まれた。主の忍耐は、無限のあわれみに満ちていて、弱い私達に寄り添って、歩まれる愛で貫かれている。主は私達に対して、聖なるご計画と希望を持っておられる。故に、いかなる試練にあっても、慌てる事なく、主がすべてを統御し、ついには、ご計画を実現して下さる事を確信して、希望を抱いて服従したいものである。




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