巻頭言
2017年5月


2017年5月7日

「NO!主イエスの否定したもの」

犬塚 契牧師

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 <マタイによる福音書4章1-11節>

イエスキリスト宣教開始前に受けた誘惑の3つ。石をパンに変えてみよ、天使が支えるか試してみよ、多くを所有してみよ…それぞれの誘惑は、「自分の能力を示すこと」であり、「人の歓心を買うこと」「権力を求めること」といえるでしょう。人生の行程において何度も繰り返す「私は何者か」の質問に往々にしてその3つより、答えを導きだそうとするものです。しかし、その獲得上昇型の人生は、焦りと不安と不満でいっぱいともなりえます。むしろイエスキリストは「そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉に「何者ぞ」の答えを得ました。神の言葉に耳を傾けながら、下降、喪失の中でいのちの気づきへと価値の転換を得ていきたいと思います。読み飛ばしていた行間や踏み潰していたサイン、認め得なかった弱さを拾いなおす時をいただきながら、喪失と下降の中で、主イエスキリストを救い主と告白して歩みを進めたいと願うのです。そして、そのただなかで主イエスを発見いたします。「主よ、ここにおられたのですか」「主よ、ここに来られたことがあるのですか」私たちがハマるような、どの深みにも神の御名が刻まれてあります。おぼろに映るものを見る私にとって、「神われらと共に」とは、疑いようのない確信というよりも、断片であります。一切を解決させる魔法ではありません。なおのこと「求めよ、さらば与えられん」の歩みを続けます。それでも、その断片は少なくとも人が刹那へと惹かれるのを守り、生かしめる確かな力です。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。ロマ書8章  


2017年5月14日

「恵みによって生きる」

犬塚 契牧師

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 <ローマの信徒への手紙 5章12-21節>  

  ローマの5章の後半、新共同訳聖書には、「アダムとキリスト」との題がつけられています。第一コリント15章にも同じテーマが書かれていますが、ピンと来るにはしばらくの沈黙の中で読みこんでいく必要がありそうです。難しく理解する必要はありません。パウロはアダムのうちに最初の罪を見ました。そんなアダムを通して人を見る時、そこには罪の始めがあり、そして、自分自身もまた罪と無縁ではないことを知らされるのです。しかし、パウロは大きな発見をします。アダムの歴史は、キリストの歴史に覆われ、飲み込まれていくのだという発見です。それは、福音の世界であり、恵みの流れるところです。恵みとは、神のジレンマを解決する唯一の方法でした。罪人を愛して止まないを神は赦すべきなのか、裁くべきなのか…。そのジレンマにたいして恵みだけが有効に働きます。「わたしは神であり、人間ではない」(ホセア11:9)神は、神ゆえに、人のようにではなく、神として思うのままにふるまってよかったのです。そして、神はキリストを通して、恵みを流されました。罪は十字架によって裁かれ、罪人は赦しを宣言されました。神側の一方的な出来事でした。もし、人の如何によるならば、恵みは、すぐに報酬と変わり、一方で心地よさを提供し、一方で失望の闇を提供することでしょう。不安定な状態です。しかし、神は神ゆえに神としてどんな人をも恵みます。主イエスキリストに証拠をみたいと思います。▲アダムを通して人を知るとき、そこには絶望があります。しかし、キリストを通して人を見る時、「神に愛されし者」を発見するのです。



2017年5月21日

「あなたはどこに」

犬塚 美佐子師

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 <ヨハネによる福音書21章1-14節>  

「私は漁に行く (後ろに退く。死ぬ)。」とペトロは絶望して言った。この湖から召されて三年間、弟子たちは奇跡の数々の中にいた。しかし、一変した。イエスの十字架の死、「イエスなど知らない!と言った自分たちの裏切り。彼らは瀕死の状態で漁に出たが、何も取れずに夜は明けた。火が起こされ、魚が焼かれ、パンが用意されている岸辺で、手厚いもてなしを受けて、弟子たちは「イエスだ」と知って、癒され赦されていった。「イエスが死者の中から復活したのち、弟子たちに現れたのは、これで三度目である」(14節) 一度や二度、復活の主に出会う事では、癒されない罪と傷があった。ジョン・パニエは孤児院で泣かない子供たちを見た。世話してくれない、叫びを聞いてくれない、深い孤独の中に光も見えず、慰めもなかった。置き去りにしてはならない存在がそこにあった。聖書に「自分のように隣人を愛しなさい」とあるからである。この隣人に向き合うことを、律法の第一としたイエスは、どこに私達を導いて行きたかったのか。イエスはたとえを話された。強盗に襲われた人は瀕死の状態で、助けを待った。祭司が来て、レビ人が来たが、通り過ぎて行った。 期待できそうにない旅人のサマリヤ人が来た時、出来事は起きた。この人は立ち止まり、解放し、宿屋に連れて行き、一切の面倒を申し出た。イエスは言った。「誰がこの強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」「その人を助けた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。この「〜しなさい」とは「〜の状態になりなさい―つまり、ここでは横たわりなさい」の意味を持っている。人生は小さな赤ちゃんの弱さから、老人の弱さまで成長するという意味づけをした人がいる。弱さは無力を教える。人生は弱さと無力の只中を生きる時こそ、神様の愛が積み重ねられ、それによって豊かに成長していけるのでしょう。弱さの経験が他者を赦す愛へと成長させてくれる。テべリヤ湖のペトロも弟子たちも、イエスのもとに横たわって癒された。「私は決してあなたを離れず、あなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ13:5)



2017年5月28日

「神の助けによって生きる」

犬塚 契牧師

被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。           <ローマの信徒への手紙8章>  

5月17日の早朝に天に召された栗山兄のなきがらを横に霊安室でこの聖書箇所を読みました。栗山兄は、幼少に患ったポリオによって、下肢に不自由を抱えておられました。生涯において緊張のあった体が、解かれて、その息は主の元に戻されたのを見ました。突然の驚きや淋しさだけでなく、関わりの感謝と安堵感がありました。「ありがとうござました。お疲れさまでした」▲たまの不調と小さな不具合しか知らない私の想像を遥かに超えて、「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んで」おられたことと思います。時々に(身体的に、精神的に)科せられる制約に、口を絞って耐えておられるのを何度か見たことがあります。70を超えた男性が、なお寄せ来る危機に心を震わせておられました。人がうめいていました。しかし、また次に会うときにはどこかそこから抜け、逃れの道を行かれている姿も見ました。本人が主イエスキリストの関わりにおいて一番その助けを知っておられたのではないかと思います。▲ローマの8章…「心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこの希望によって救われているのです」…日本語として意味が分かりません。うめきなのか、希望なのか…。しかし、慰めがあります。うめきのすぐ裏側に、すぐ真横に、救いがある。うめきを吐いたその息は、救い息を感じて戻る。言葉として分かりませんが、信仰生活の実体としては、どこか理屈を超えて納得できるものがあります。そして、それは次のように書かれているとおりです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」




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