巻頭言
2016年5月


2016年5月1日

「この時を畏れをもって生きる」

犬塚 契牧師

 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」<出エジプト記1章>

 イスラエルの民へ圧政を続けるエジプト王に対して、一矢報いた二人の助産婦の爽快物語。古代世界から現代に至るまで、彼女たちの勇気と機転、神への畏れと報いが語られ続けています。おそらく助産婦という仕事は女性の憧れであったことでしょう。エジプト王と対等に話せる社会的な地位と命のはじめに触れる人としての地域の信頼。イスラエル人だけでなく、エジプト人もみな彼女たちが助けたのです。しかし、エジプト王は、医療ミスを誘って男児を死なせるように命じました。悩みと祈りの末でしょうか、エジプト王の心の隙をついて、彼女たちは弁明します。「お母さんたち、とても丈夫で、行ったら産まれてるんだもの。ミスもなにもないわよ」。産まれた子を殺せとはエジプト王も言わないだろうとの読みと命の尊厳を知る助産婦の凄みがあったのでしょう。彼女たちはこの危機を切り抜けるのです。じっくりと思いを巡らせてみれば、この爽快物語の後ろにある泥臭さを感じます。▲旧約学者の関田寛雄先生が「敗者として生きる根拠」ということを書かれていました。教会、学校、社会というご自身の抜き差しならない現場で、負け続ける歩みをどのように生き抜けるのかを問われるのです。その中で、詩編37編を紹介されていました。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。…」▲人間が歴史の一コマの中で、どのような宣言を立ち上げようと、本当の裁きは、神の法廷の中にあることを希望として「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ」ることを教えられます。助産婦。シフラとプアの心をのぞいた気持ちがします。▲「われわれが、今日、キリスト者であるということは、ただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」ディートリッヒ・ボンヘッファー



2016年5月8日

「希望の足音」

犬塚 契牧師

 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠 をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を 産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 <ヨハネの黙示録12章より>

 天地創造は、「光あれ」から始まって、完成するまで神が一人でされました。私たちはその神の始められた天地創造の歴史の途中から参加したにすぎません。私の場合は、1975年からしばらくです。時々、生きることの酷さに体が冷えますので、神の歴史に絡んだことを喜ぶのには、多少の信仰が必要に思っています。年間聖句を思い出します。さて、神の新たな仕事は再創造です。造られたものをリノベーションする予定があることを聖書から知ります。神は、新しい天と新しい地を用意されます。次はそれを人と共に行おうとされます。今のこの地でなされることがやがての地において、影響を与えます。▲「明日、たとえ世界が滅びるとも私はリンゴの木を植える」。有名な言葉は、マルチン・ルターが語ったと言われます。最後まであきらめないことの勧めや、「なるようにしかならないのだ」という諦観を示しているなどと言われますが、浮かぶのはマタイの18章です。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」…地上でなすことが天上に意味があるということ。今なすことがやがてに影響があること。ならば、すでに今もやがての中にあり、新しい地の新しい天の内にあるということを思います。▲ 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」ローマ書8章



2016年5月15日

「イエスの驚き」

犬塚 契牧師

 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。  <マルコ6章>

前章には、会堂長ヤイロの娘の復活と長血の女性の癒しの記事がありました。衣の裾に触れれば癒されるというほぼ「迷信」のような長血の女性の信仰をイエスキリストは、そのまま去らせることはしないで、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と声をかけ、「信仰」へと引き上げられました。同じ道中にヤイロの娘の死が伝えられ、知らされた彼が絶句しても、そのまま先を行き、娘を起こされました。ヤイロにはイエスキリストの後ろを歩く力しかありませんでした。「迷信」にしろ、「絶句」にしろ、不完全に思えるそれをよしとして、イエスキリストは「信仰」とされることに慰めをいただきます。しかし、6章…故郷においては、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。幼い頃をイメージが払拭できなかったわけでもなく、教えが貧弱だったのではありません。「多くの人々はそれを聞いて、驚いて…」とあります。最初の驚きは他の伝道地と異なるものではありませんでした。しかし、それが信じることへ繋がらずに、驚くほどの不信仰に変わりました。マルコはその理由を記しています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。…故郷の人々は、自分たちの理解できる範囲、納得できる有り様、知識の及ぶ限りでイエスキリストを通して表される神のみ業を捉えようとしました。▲背中で起きていることも知らない者です。鳥が歌を覚え、花に色がつき、川が流れ、風が抜けます。心配は人間だけしているようです。


2016年5月22日

「永遠の王キリスト」

犬塚 修協力牧師

 「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神」<第一テモテへの手紙1章12-17節

 パウロは自分を「罪人の頭」と呼んだ。「罪」とは元来「的外れ」の意味に由来した。私達は的を外した生き方をしやすい。人に対しても、不完全な関わりしか持てなかったり、行いにおいても失敗や誤解、不十分な事しかできない事の方が多い。世の中で言う「罪・犯罪」はこのような的外れの生き方の悪しき結果に過ぎない。▼しかし、パウロは「こんなどうしようもない私をキリストが救い出して下さった!」と深く感謝し「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(15節)と記している。「世」とは「世界又はその一人である自分」である。キリストの救いは完全なものであった。私たちは「完全」を求めて、荒野を旅する旅人に似ている。世界は「不完全・不平等」である。歪んだ鏡を見続けていると、頭が混乱してくるように、「不完全さ」に心が占領されていると、次第に心は無気力や狂気に傾いてしまう。▼この混乱した世に、キリストが完全な恵みの王として出現された。このお方の救いを信じる以前の私達は、いろいろな強迫観念に、日々責められ、追われていたような「逃亡者」のような罪人であったと思う。自分がしなければならない事は山のように多いが、現実的にできる事はとても少なく、それ故に幻滅感、失望感は少しづつ蓄積していく。しかし、パウロはその過大な期待や責任感を自分や他者に求める事を断念した。それは「完全なるもの」は人間の中にはなく、神の中に存在すると見抜いたからである。主の救いは完全であるから、私たちの行いが不完全であっても、そこには神からの完全な赦しがあると信じた。悔い改めて生きる事で、常に赦しと愛に与る事ができると確信したのである。弱い私達を慈しみ、義を追い求める小さな行いを喜び、受け入れて下さる神は、無限の忍耐と愛を持っておられるお方である。▼私達のキリストは厳しい神ではなく、愛に満ちた永遠の王である。「永遠」とは時代の積み重ねの意味も持っている。私達の日々、又時代の中に、キリストは共におられ、私達の王として深く関わって下さっている。キリストは全能の神、また王であり、私達はこの偉大な王の僕である。僕は人生において全責任を負う事はなく、王がすべての責任を背負っていて下さる。ここに私達の平安と喜びの秘訣がある。ゆえに、「今、ここ」を人生最高の時として受け入れ、「今、ここから」信仰の道を突き進んでいきたいものである。


2016年5月29日

「ゴールに向かって生きている」

中西 理恵伝道師

 「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。」 <コリントの信徒への手紙1章8節>

 私たちが思いもかけないような人生のゴールを、聖書は私たちに示しています。そのゴールとはただこの世の死をもって終わるというものではありません。この世のすべてが終わる日、主イエス・キリストが再び来られる日に私たちは神の前に立たされ、自らの人生を問われます。そしてその時、責められるところのない者として神が受け入れてくださる、それこそが私たちに与えられるゴールであり、神ご自身が望んでおられることだと聖書は告げています。けれども、私たちは自分の人生をすみずみまで省みた時、一点の曇りもなく正しい者だと胸を張って神の前に立てる者ではありません。そればかりか自分自身が人生の支配者であり裁き主であるかのように勘違いしてしまいます。ただ自己満足が得られるかどうかに躍起になり、他人の評価に振り回され、結局死んだらすべて終わりなのかと空しさを抱く。そのような私たちを非難して捨て置くようなことはすまいと、神は御自分のひとり子イエス・キリストに結ばれて生きる歩みを私たちに与えてくださいました。コリントの信徒への手紙一1章4〜9節の短い中に繰り返しその名が語られるように、私たちをゴールまで導いてくださるのはキリストです。私たちの身代わりとして十字架上で神に見捨てられる罪人の死を引き受けてくださり、その死から復活されて永遠に生きておられるキリストと結ばれて、この世の死で終わらない命を、そして神に良しとされる生を生きることができます。バプテスマによってキリストに結ばれてスタートした歩みは、救いの完成というゴールに向かってキリストがしっかりと支えてくださる歩みです。『足跡』という詩にあるように、人生の最も悩み苦しむときに、主キリストが私たちを抱えて歩んでくださるほどに。そしてその歩みは「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」(2節)とあるように、ただ神の恵みによって集められ、一つのチームとされた人々が前にも後ろにも横にも大勢いて、共にゴールに向かう歩みです。神の家族の間で証しされるキリストに支えられ、ゴールに立たせていただく日を共に待ち望みましょう。



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