巻頭言
2015年5月


2015年5月3日

「赦されない罪はあるか」

犬塚 契牧師

 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。        <マルコによる福音書3章20-30節>

 病気の癒し、悪霊の追い出し、権威ある権威ある言葉…イエスの人気は日を追うごとに増していきました。宣教の拠点としていたカファルナウムの家(おそらくはシモンとアンデレの家)に戻っても、落ち着く間もなく、人々が集まってきました。そこに故郷ナザレからは、「気が変になっている」と聞いた身内が取り押さえにやってきて、エルサレムからは「悪霊に取りつかれている」と律法学者がわざわざ糾弾にやってきました。途切れない人のニーズ、変わりやすい評価、身内が抱いた心配と不安への悲しさ、律法学者たちが下した判断…どれもが大きなストレスに思えます。地にあって、神は確かに「拒絶」されました。しかし、その後、拒絶された神のしたことは、その持っている絶大な力ゆえに意外に思えます。23節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。」たとえを用いて話す理由はできるだけ分かりやすく伝えるためです。「拒絶」には「拒絶」を、「不理解」には「いらだち」を、「かたくな」には「放置」を…が日常なのだと思っていました。だから上記23節が奇妙にも温かく響きます。▲律法学者たちは、わざわざエルサレムからガリラヤまでの遠路をイエスの働きを見るために出かけてきました。そして、その働きの目撃者となりました。しかし、彼らのくだした評価は、「悪霊の頭」の仕業というものでした。神の働きを悪霊の働きとする、それは言ってはいけないものでした。この箇所を読むと「おとこはつらいよ」の寅さんセリフが浮かびます。「それをいっちゃぁ、おしめえよ」。人はそんなおしまいの言葉を語ってはいけないのだと思います。最後の言葉は神のものであり、預けるものであり、預けるはどこか希望ある作業です。



2015年5月10日

「負いきれないくびき」

犬塚 契牧師

 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。                     <使徒言行録15章1-21節>

 一世紀に誕生したキリスト教会が直面した課題を前に、初めての会議がエルサレムで行われました。ペトロやイエスの弟ヤコブが導くユダヤ人たちが集うエルサレム教会と雑多な異邦人からなる躍動的なアンティオキア教会の信仰理解に相違が生まれ、看過できないところまできていました。異邦人であっても、モーセの律法を守り、割礼を受けるべきなのではないかと考え、アンティオキアでそのように勧める人々とパウロはぶつかり、エルサレムでの会議となったのです。▲歴史家は、当時、かつてないほどの反ローマのユダヤ主義の機運に満ちていたと記録しています。その雰囲気の中で、どうして律法を飛び越しての異邦人への救いが認められようかと思います。エルサレムのユダヤ主義者の葛藤を思います。「本当に、いいのか。大丈夫なのか。今までの律法への遵守を求めなくても」。喧々諤々なる会議で、いよいよペトロが10年も前の異邦人との出会いを思い起こして証しします。10年…信仰が言葉になるのは、時間がかかることでもあるのだと知ります。それでも、エルサレムの人々の関心と空気を考えれば、孤立してしまうかもしれない挑戦です。しかし、人々は静けさを取り戻しました。その後にパウロの各地での証言が続き、最後にエルサレム教会のリーダーであるヤコブが会議を決定づける発言(上記聖書箇所)をして、終わりを迎えました。▲15章は、「割礼をするべきか否か」教理の話ではないように思えます。人の葛藤と配慮と祈りと恐れと愛と決断が入り混じっている箇所です。その背後に聖霊なる神の働き、神の息の中に生かされる信仰者の姿をみます。神は呼吸をやめたわけではないでしょう。愛、冷えた時代にはなおのこと深く、深く…信仰者はその内に生きます。



2015年5月17日

「招待礼拝」

犬塚 契牧師

 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。            <箴言3章5-6節>

 5月10日は、招待礼拝として横浜山手町キリスト教会の鉄井三千夫牧師が宣教くださいました。天気も守られ、新しく来られた方、久しぶりに参加くださった方を含め、多くの方々と礼拝を守る事ができ、感謝な一日となりました。午後の愛さんの時には、父母の日として皆さんから募集した川柳の紹介がされ、「五目ずし、作ってみれば、母の味」という小林姉の作品が特選となりました。お母様を亡くされた時、棺にいれるために作った五目ずしの味のことを詠んだ詩でした。▲礼拝においては、箴言の箇所から、鉄井先生ご自身の歩みを振り返っての宣教でした。いっさいは不確かさの中と認識し、そのためのリスクを回避していく歩みであったものが、42歳の時に様々なきっかけが重なり、導かれるように出会った聖書の言葉の確かさに「まいった」と信じる者となったと証しされました。人は誰しも中心をもって生きている中で、神が治められている「原則」を中心に据えた時だったようです。それ以来、いつも前に広がる二つの道のひとつを選ぶ中で、神の喜ばれる道を信じ、行動して生きてこられた歩みを紹介くださいました。宣教の中で、ローマ書を参照され、神様の働きの確かさと絶妙さを伝えてくださいました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)



2015年5月24日

「39年目の奇跡」

犬塚 修牧師

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節) <ヨハネによる福音書5章1〜18節>

 38年間、病気で苦しんでいた一人の男に、主イエス様は近づかれ「良くなりたいか」と尋ねられた。彼は「その通りです」と答えず、誰れも自分のために手助けしてくれる者がいないと怒りを爆発させている。彼の心は人に対する怒り、不満、絶望感に満ちていたように見える。エルサレムの町にあったべテスダの池には、おびただしい病人が各々、体の癒しを求めて集まっていた。この池の水が、時々、水泡を噴出する時、最初に池に飛び込んだ人は病人は癒されるという奇跡が起きていたのである。彼も、癒しを切望して、気が遠くなる程の長い忍耐の年月を重ねてきた。彼自身が求めたのは、弱い自分を抱えて、水中に入ってくれる助け手を夢見ていた。けれども、その願いも叶わず、長い歳月が諦めと失望を与え、彼は無気力な病人、また「生ける屍」のようになっていた。現実は厳しい事、人間は頼りにならない事などを骨身しみて味わってきたのである。その彼に対するイエス様の答えは、「起きなさい」であった。その命令にすぐに従った時、奇跡が生じた。そして、彼が心深くに抱えていた「人への過度の依存心」や「恨み・失望感」からも脱出する結果を得た。彼の癒しは体の面のみでなく、全人格的なものとなった。私達はどうしても肉体的な癒しだけを求めがちだが、イエス様は人 生の根源的な部分に、救いを与えられるのである。彼の犯していた罪は、関心が一箇所集中し過ぎていた点であると思う。つまり、自分の救いはここしかないと、決めつけていた。つまり、水の流れだけに固執していた。その結果、彼の心は狭くなり、偏執狂的に陥ってしまい、自分で自分自身を縛 り、不自由になっていた。主はその苦しみから解放され、広くゆとりのある広大な世界に導かれた。彼は暗い穴から引き出され、神の恵みの世界へと歩き出した。それは自立して生きる道であった。主に従う道こそが、自分を生かす 本当の自立の歩みである。その道では、自分をダメにする依存心や非自立性、無意識的な受動性、甘えは取り除かれていく。主は「あなたには自力で立つ強い力を与えている」と語られている。彼の歩みは神殿に向けられた。神を礼拝して生きる人は、自由人となる。



2015年5月31日

「教会の誕生」

犬塚 契牧師

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。      <使徒言行録2章1-4節>

 クリスマス、イースターに比べると、ペンテコステへの関心度、集中度は低いでしょうか。それでも、教会の誕生した日として、覚えたいと思います。使徒言行録2章1節〜の場面。これを「多言語奇跡」とこの日の出来事を一言でまとめても、なお想像に難しい場面があります。バビロン捕囚以降、世界に散らばり、各国の言葉で育ったユダヤ人たちが、ここエルサレムで自分の育った国の言葉で福音を聞いたのは確かに驚きだったと思います。しかし、一夜にして、習得した言語は次の日には忘れてしまったのでしょう。それらの言語が後に用いられたとはついぞ出てきません。ペンテコステの最大の驚きは、言語習得でなく、ひとりひとりに聖霊が与えられたことでした。▲神は、歴史を通して、3つの神殿を建てられました。神と出会う場所は変化していったのです。一つは、ソロモンが建て、荒廃と再建され、後にヘロデが造りなおしたエルサレムの神殿。二つ目は、イエスキリストという神殿です。(イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」…イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。ヨハネ2章)。そして、最後に初めからそうしたかったかのように、ペンテコステにおいて一人一人に望まれました。一人一人が神殿となりました。(あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。Tコリ3章)。いよいよ神は最も近いところで語られることを得たのです。何だか震える知らせです。▲風や息のようにご自分を隠されたる神の姿に、想像超えた遜りを思います。同時に、もどかしさを感じ、うめきをもらいます。パウロはその間のうめきの中を生きる保障として、聖霊を紹介しています。(神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。Uコリ5章)。▲それぞれに特別に知らされる神の姿が確かにあります。理屈で説明できない平安を大切にして生きたいと願います。




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