巻頭言
2014年5月


2014年5月4日

「やがての実」

犬塚 契牧師

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あ なた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさ い。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。…めい めいが、自分の重荷を担うべきです。…たゆまず善を行いましょう。飽きずに励 んでいれば、時が来て実を刈り取ることになります。 ガラテヤの信徒への手紙6章

 ガラテヤ書6章を読むといつか旅先で読んだマザーテレサの言葉を思い起こします。▲「人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。それでも彼らを愛しなさい。もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでもいい行いをしなさい。もしあなたが成功すれば、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。あなたがした行いは、明日には忘れ去られます。それでもいい行いをしなさい。誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。それでも、誠実で親しみやすくありなさい。あなたが歳月を費やして建てたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも建てなさい。本当に助けが必要な人たちですが、彼らを助けたら、彼らに攻撃されてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。それでも、一番いいものを分け与えなさい。」〈マザー・テレサ)▲ガラテヤの6章はクリスチャンが成すべき、新しい律法として読みたくありません。「柔和な心で」と勧めたのは、キリストのこころがそのようだからです。生かされている一人一人がそれぞれのキワ(際)、エッジ、ギリギリ、果てを生きています。言葉にできなくても、目には見えなくともです。なんて人の心とは見えにくいものなのでしょう。キリストの低きに立たれる姿、弱さを省みられる心を知らされて、クリスチャンはもう一つの目に見えない国を生きはじめます。



2014年5月11日

「倍返し」

犬塚 契牧師

 オバデヤの幻。我々は主から知らせを聞いた。使者が諸国に遣わされ「立て、立ち上がってエドムと戦おう」と告げる。主なる神はエドムについてこう言われる。…救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。                          オバデヤ書

 最も古く短い預言書であるオバデヤ書は、エドムに対する裁きとイスラエルの回復を預言しています。エドムは、創世記に登場するエサウの子孫たちであって、イスラエルとは兄弟でした。しかし、バビロン帝国がエルサレムを攻撃し、崩壊の中にあっても、エドムは助けることもせず、「眺め」「喜び」「待ち伏せし」「財宝に手を伸ばした」と書かれています。オバデヤ書によれば、エドムはこのことのゆえに神からの裁きのメッセージが語られるのです。しかし、これが聞かされているのは、エドムではなく、エルサレムの残りの者たちです。彼らはオバデヤを通しての次のような神の預言をどのように聞いたのだろうと思います。「…兄弟が不幸に見舞われる日に お前は眺めていてはならない。ユダの人々の滅びの日に お前は喜んではならない。その悩みの日に 大きな口をきいてはならない。」神がいつの間にか相手先(エドム)に黙って出かけて、決着をつけてきて、帰ってきたのではありません。自分たちの方に顔を向け、ひとつひとつの出来事のそばにあったのだと語られたのです。▲遠くの他人から裏切られるよりも、近しい者からの仕打ちの方がはるかに痛いものです。溝も亀裂も深くなります。浅い傷はすぐに治っても、深い傷には時間がかかるのです。「倍返し」したいようなエルサレムのほうに、神は顔を向けられました。そして、やがてのイスラエルの回復と「主のものとなる」約束を伝えます。エルサレムの悔しさや復讐心は、神の心の一端を知らされることによって静まったのでしょうか。旧約の時代を生きた人々への神の業を知らされながら、それが今日の私たちそれぞれの生きる場においては、どのように受け取られ、具体にされるのかを操作することはできません。それぞれに思いのままに吹く主の風、聖霊の働きに期待するのみです。それでも、最古の預言書に書かれたご自分の子どもたちをなんとか取り戻そうとする父の心を静まりの内に聞く者でありたいと願います。



2014年5月18日

「招待礼拝の恵み」

犬塚 契牧師

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 ローマの信徒への手紙 12章1−2節

 ふじみキリスト教会では、年に2度ほど招待礼拝をもっています。先週、行われました春の招待礼拝では湘南台バプテスト教会の坂元俊郎牧師が宣教をしてくださいました。久しぶりに礼拝にご一緒できた方も多くおられて感謝な一日となりました。坂元先生が神学生時代、ふじみ教会に夏期伝道チームで来られたのが37年ほど前で、その時の写真が何枚か写されました。竹やぶを払って映画会をしてくださった思い出なども語られました。その時以来、ふじみ教会の歩みをずっと注視し、心を寄せてくださる中で、ふじみ教会に流れる霊譜を大切に外から眺めてくださり、今回はその風景もまた伝えてくださいました。礼拝堂の雰囲気、教会の流れや空気・・・神がおられることを感じさせる教会であることとそれはただ祈りによって形作られるものであることを教えてくださいました。それらは中にいてはなかなか見えなかったことでしたので、ハッとさせられる経験となりました。礼拝においては、ローマの信徒への手紙12章1-2節が読まれました。日々、様々な想いや出来事ことに私たち自身が囲まれ巻き込まれながら、それらを選り分け、吟味し、熟考し、祈り、神の前に生きようと続けることは” 霊的な礼拝”であることを教えられました。それらは、確かさを知らぬ人間の不信仰な作業の繰り返しなどではなく、生きることの厳粛をそのまま預けられながら、なお神と共にあることへ導かれる礼拝なのだと確認できて感謝でした。



2014年5月25日

2013年度の定期総会巻頭言から…「キリストがすべて」

犬塚 契牧師

 …答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。    ヨハネによる福音書20章28節

 見渡せば「神」ばかりの世界が広がっています。私たちの生きる世界は一宿一飯を与えてくれる人や、剛速球の投手も神にしてしまいます。それは、きっと自分自身が神となっていることの裏返しでしょう。神を認定し、審判する神以上の存在であろうとする人が見えます。どうにかしてまことの神を亡き者にしようとする強い力には闇を見ますし、同時に「どこにいるの」という叫びをも感じます。ヨハネによる福音書の20章は、疑いのトマスが復活のイエスキリストに出会うシーンがあります。ヨハネはその20章の最後をこう締めました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」トマスのこの告白は、何ものをも神としてしまうような文化的背景での応答ではありません。神の名を誤って使うことがあれば、死をも意識するようなユダヤの背景での応答です。目の前の人間を神とするなど、頭をよぎったことも、想像したことも、まして告白したこともないような状況下です。しかし、紛れもなくイエスキリストに対してトマスは語りました。「わたしの主、わたしの神よ」2013年のふじみキリスト教会の歩みもまたそのことを知らされるを望みたいと思います。キリストに置き換わる言葉も代替品もありません。神の受肉という有り得ないような出来事があり、十字架による罪の贖いという法外な恵みをいただき、復活の主イエスの事実において今日も伴なってくださる神がおられることを知らされています。たとえ日本においては少数派であっても、信仰者・礼拝者として世に生きるものとして、ともし火を掲げたいと思います。光は闇の中でこそ輝くのです。 日本中の十字架を掲げる「キリスト教会」が団体名称でなく、「キリストの教会」として、その独自性と存在意義を改めて示されていくことを祈りますし、ふじみキリスト教会もそうありたいと願います。その意味を込めて、年間標語は「キリストがすべて」とさせていただきました。コロサイ3章15節の一部です。分厚い聖書を読み解く鍵はキリストであります。私たちの歩みもまたキリストが土台であり、基です。交わりの中心はキリスト中心でありたいと思います。自分中心の歩みの繰り返しに何か残るものがあるでしょうか。週に一度、礼拝を捧げるという稀有な歩みを続ける私たちは、なおそれを際立たせて「キリストがすべて」と神の示された出来事を喜び、賛美をしていきたいと切に願います。





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